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江馬 修(えま しゅう、または えま なかし、1889年12月12日 - 1975年1月23日)は、日本の作家。本名の読みは「なかし」で、筆名は「しゅう」とすることが多かったが、一定しない。 ==来歴== 岐阜県高山市生まれ。画家を志して出奔し、横山大観の家に同居していたこともあるが、5日で帰郷。1906年〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.3〕、斐太中学校中退。田山花袋の書生や小学校の代用教員、区役所の臨時雇いなどを経て、1911年、『早稲田文学』発表の「酒」でデビュー〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.4〕。夏目漱石門下の阿部次郎らと交遊。このころ小宮豊隆の紹介で夏目漱石にも会っているが、デビュー作「酒」の題名に引っ掛けて「酒の作者か、酒だるの作者か知らないが、もっとこっち来給えよ」と茶化され、気分を害して漱石から距離を置いた〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)p.100-101〕。 1911年頃、森田草平や生田長江から石川啄木の病が重いことを聞き、知り合いの医師に頼んで啄木とその一家のもとに往診させる〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)p.105-108〕。啄木の没後、1920年には盛岡で啄木歌碑の建立を提案し、そのために募金講演会を開き、1922年に歌碑除幕を実現させた〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.5〕。 その間、1916年、長編『受難者』がベストセラーとなって名を挙げる〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)p.136〕。当時、江馬は人気作家の一人で、偽者が現れて女を騙したり金銭を詐取したりする事件が続発した〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)p.109〕。島田清次郎は、江馬の『受難者』『暗礁』に霊感を受けて『地上』第一部を書いた〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)p.150〕。 1926年以後ヨーロッパに渡り、帰国後、『戦旗』に属するプロレタリア作家として活動する。1929年、特高に逮捕され約40日間留置の後、起訴猶予処分となる〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.6〕。1934年に飛騨高山へ戻り、郷土研究雑誌『ひだびと』を創刊し、赤木 清の筆名で考古学論文を執筆。この期間に蓄えた郷土史の知識に基づき、戦中から戦後にかけて長編『山の民』を執筆〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.7-8〕。 1946年、日本共産党に入り飛騨地区委員長となる〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.8〕。1966年、日本共産党を離党〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.9〕。中華人民共和国で最も有名な日本の作家だった。 1914年、25歳で初婚〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.4〕。1917年、ピアニスト久野久と恋仲になる〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)p.148, 巻末年譜p.5〕。1927年、作家・民俗学者の江馬三枝子(本名、富田ミサホ)と再婚〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.6〕。1950年〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.8〕、当時28歳の豊田正子と知り合い夫婦同然に暮らすが、三枝子は離婚に承諾しなかった。ぬやま・ひろしとの交遊から文化大革命中の中国に渡り、豊田にこれを礼讃する著作を書かせるが、その後、1972年〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)巻末年譜p.9〕、豊田を捨てて53歳下の天児直美と暮らした。 江馬の作品は黒島伝治、大岡昇平、羽仁五郎などから非常に高く評価されたが、文壇からはほぼ黙殺された〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)解説p.25〕。吉目木晴彦は16歳で江馬の『山の民』を読んで作家を志し、江馬の自伝『一作家の歩み』を修業時代のバイブルとしていた〔江馬修『一作家の歩み』(1989年)解説p.29〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江馬修」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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