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江馬氏[えまし]
江馬氏(えまし)は、桓武平氏経盛流を称した輝経が北条氏に仕えたのに始まるという〔『飛州志』所収の江馬氏系図によれば、「平経盛の妾腹の子輝経が、伊豆の北条時政に養育され、伊豆田方郡江馬庄の地名をとって、江馬小四郎と名乗った」と記されている。しかし、「江馬小四郎」とは時政の次男北条義時の通称であり、『飛州志』の所伝は信憑性を欠ける見方もある。〕。
== 概略 == 戦国時代に、江馬時経が登場し江馬氏は飛騨の有力国衆となる。時経は飛騨の北部に勢力を築き、国司・姉小路家や三木氏(のち姉小路氏)とたびたび争った。 飛騨国衆の争いは、甲斐国の武田信玄と越後国の上杉謙信が信濃国北部の川中島四郡を巡り争った川中島の戦いと相関し、三木氏と江間輝盛が上杉方に属したのに対し、時経の子・時盛は武田氏に帰属し、永禄7年(1564年)には武田氏の助力を得て三木氏・江間輝盛を圧倒した。これにより、輝盛も武田氏に帰属した。 元亀4年/天正元年(1573年)4月に武田信玄が死去すると、これを察知した輝盛は上杉氏に内通すると時盛を暗殺し、江間氏を主導する。その後は尾張国の織田氏の力を背景にした姉小路自綱の力が強大化し、江馬氏は衰退していく。天正10年(1582年)6月に本能寺の変により織田信長が横死すると、織田氏に帰属していた姉小路氏と争ったものの、八日町の戦いおいて輝盛は戦死する。これにより江馬氏は、事実上滅亡した。 輝盛の後継とみられる江馬時政は金森氏を頼ったものの、のちに反乱を起こし殺害され、江馬氏は滅亡した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江馬氏」の詳細全文を読む
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