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江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 1996年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官、自治大臣、防衛庁長官等を歴任。 == 来歴・人物 == 愛知県一宮市出身。旧制私立東邦商業中学から旧制第八高等学校(現・名古屋大学)に入学。八高に入ってすぐに肺結核にかかり、闘病生活中に小説を書き始める。1934年、雑誌『改造』の懸賞小説に、恋愛小説『長良』を応募し佳作となる。また、禅寺で修行するなどし、八高を結局、中退する。その後、日本大学経済学部に進学。作家を目指し、横光利一や菊池寛に紹介されるが、結局、母校である東邦商業で教師となった。東邦商業校長の下出義雄は、名古屋にあった大同製鋼の社長でもあったため、下出社長の秘書となる。 1946年の衆議院議員総選挙に日本自由党から立候補し、初当選(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・早川崇・中野四郎など)。自由党の実力者で、農林大臣、自由党幹事長、総務会長を歴任した広川弘禅の忠臣として活躍した。広川が失脚した後は緒方竹虎派に所属し、緒方の死後は、砂田重政の庇護を受けた。1960年、第1次池田内閣の防衛庁長官として初入閣。この年、岸信介に誘われて外務大臣として入閣・政界入りした藤山愛一郎が岸派の一部議員と藤山派を結成した際、同派に入会した。藤山の凋落後、水田派結成に参加。 1971年の第3次佐藤改造内閣で増原恵吉・西村直己が立て続けに辞任した後任として防衛庁長官に再び就任し、翌1972年の第2次田中角栄内閣では、自治大臣兼国家公安委員会委員長兼北海道開発庁長官に就任。1973年に自由民主党の初代幹事長代理となり、マスコミに積極的に出演し、田中内閣の党側のスポークスマンとして活躍した。 田中内閣総辞職後の1974年に、同じ水田派の田村元(後に衆議院議長)と共に田中派に入る。江崎は自由党系の広川派、緒方派を別として藤山派、水田派と傍流とみなされる中間派に長年所属して、口八丁手八丁の万能選手と評される一方で、弁舌と器用さに対してやっかみもあり、能力ほど評価されていなかった。田中派に入会し自民党総務会長、党政務調査会長、通商産業大臣を歴任する。第2次中曽根内閣第2次改造内閣では副総理格で入閣し総務庁長官を務めた。一時田中も田中派からの総理候補を挙げるときには二階堂、江崎、後藤田正晴の順で挙げていたがもちろんこれは田中の世代交代を望まないゆえの時間稼ぎから出たほこ先をかわす目的であって本気ではない。歴任したポストは総裁候補級だったが、田中派では外様であったこと・年齢的にも田中より年長で二階堂より年少という立場であったことから江崎を本気で擁立しようとする勢力は田中派内には特に存在しなかった。 田中派では、会長の二階堂と竹下登・金丸信の間に対立が生じていたが、江崎は二階堂側に立ち、竹下派と袂を分かった。1993年、政界を引退。 1996年12月11日死去。享年81。三男の江崎鉄磨・五男の江崎洋一郎は衆議院議員(地盤を譲られたのは鉄磨)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江崎真澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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