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池乃 めだか(いけの めだか、1943年7月3日 - )は、日本のお笑い芸人、喜劇役者。本名、中井 昭彦(なかい あきひこ)。愛称は池やん、めぐ坊、めーちゃん、ちっさいおっさん。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。 == 略歴 == 大阪府守口市出身。守口市立第一中学校卒業後、三洋電機に約6年半勤務した(19歳の時には長らく結核で入院していた)後、1966年(昭和41年)に23歳で芸能界入り。 1968年(昭和43年)に正司玲児らと「中井次郎」の名で音楽ショウ「ピスボーイ」にドラマーとして参加、10日もたたないうちに熊本市民ホールで初舞台。まもなくして、以前から知遇を得ていた海原小浜門下に入り「海原めぐる」(二代目、初代は漫談のミヤ雀仙)と芸名を変え、三洋電機時代に知己を得ていた海原かける(海原小浜の息子で、海原やすよ・ともこの父)と漫才コンビ「海原かける・めぐる」を結成。ケーエープロダクションの本拠地であった寄席劇場・梅田トップホットシアターを中心に活躍していたが、1976年(昭和51年)海原かける廃業にともない同年吉本興業へ移籍し吉本新喜劇に入団「池乃めだか」に改名した(「池乃」の名付け親は六代桂文枝,「めだか」は本人)。 新喜劇入団後、長い間セリフのほとんどない子役ばかりを演じていて、新喜劇に対する意欲を失いつつあったところへ、いま寛大(当時、はな寛太とのコンビを解消していた)から漫才コンビを組まないかと誘いかけられ、約1年悩んだ末に新喜劇を辞めてコンビを組むことを決意し、劇場支配人にそのことを伝える。しかし、その場で支配人がめだかを副座長として間寛平とともに出演させようとしていたことを知り、寛大とのコンビを組むのを撤回(寛大には土下座して謝り了承された〔2014年1月12日放送の『なるみ・岡村の過ぎるTV』〕)、以後寛平との掛け合い(猫vs猿の喧嘩)で人気に火がつき、その名が知れ渡るようになった。1980年代後半、吉本本社による「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」で看板役者が次々と降ろされていく中、桑原和男、中山美保らと共に残留、その後若手育成の為座長に就任した。1995年、内場勝則、辻本茂雄、石田靖の3名がニューリーダー(1999年から吉田ヒロも加えて「座長」と呼び方を変更)に就任したのを受け、座長を卒業したものの、その存在感や人気は現在でも現座長たちに決して引けを取らない必要不可欠な存在の重鎮である。借金過多で吉本新喜劇を一時的に追放された(現在は復帰)帯谷孝史とともに、すでに1999年には新喜劇の行く末を案じていた(40周年記念本『ゲラゲラ・ハッピィ』での発言による)。 その後も重鎮として活動し続け、2006年に新喜劇の新座長に就任した小籔千豊のメインイベント「コヤブ新喜劇」のフリートークコーナーでは、「もう新喜劇も引退かなと思ってたところに小籔みたいなのが出てきたから、あと2、3年頑張ってみようと思う」という発言をしている。 2011年末に健康診断を受けた際に、自身の頭部に未破裂性脳動脈瘤が発見されたため〔フジテレビ『スーパーニュース』2012年5月29日放送での本人インタビューより〕、2012年4月6日に大阪市内の病院で開頭手術を受けた〔池乃めだかさんが開頭手術 復帰は5月以降 朝日新聞 2012年4月11日閲覧〕。その後1カ月半ほどの自宅療養を経て同年5月29日に京都府のよしもと祇園花月での吉本新喜劇公演で舞台に復帰した〔池乃めだか、開頭手術から舞台復帰 デイリースポーツ 2012年5月29日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池乃めだか」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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