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池保盛 : ウィキペディア日本語版
平保盛[たいら の やすもり]

平 保盛(たいら の やすもり)は、平安時代末期の武将。平頼盛庶長子
== 生涯 ==
応保2年(1162年)叙爵。長寛元年(1163年右兵衛佐越前守仁安元年(1166年尾張守に補任され、仁安2年(1167年)には昇殿、仁安3年(1168年)には正五位下と順調に昇進していたが、同年11月、後白河院の逆鱗により突然解官された。これは頼盛父子が後白河院に従わず、高倉天皇即位大嘗会の五節の舞姫の奉仕や皇太后平滋子の入内での保盛の行動が院の不興をかったためであった〔『兵範記』同年11月18日、28日条。高橋昌明『平清盛 福原の夢』(講談社2007年)p79-81 参照〕。
嘉応2年(1170年)には還官し、治承2年(1178年)には、従四位上中宮亮寿永元年(1182年)には正四位下となる。しかし、すでに同年代の従兄弟の通盛平教盛嫡子)、経正平経盛嫡子)は正四位下に昇進しており、長庶子のためか、保盛は彼らの下とされていた〔『吉記』養和元年4月10日条〕。一族の当主平清盛と父頼盛との間には溝があり、寿永2年(1183年)7月の平家一門の都落ちには従わなかった。平家滅亡後は本官に還任されたが、嫡子とされた光盛に比べると、昇進もはかばかしくなく、承元3年(1209年)にようやく従三位非参議となった。翌承元4年(1210年)、正三位に叙される。建暦元年(1211年)に出家した。
保盛は九条家に仕えたといわれ〔石田吉貞『藤原定家の研究』(文華堂銀行研究社1957年)〕、九条家の家司であった藤原定家と親しかった。定家は保盛の子を養育していたこともあり〔『明月記』正治元年4月19日条。定家が養育していた保盛の子を保教とする説もある。〕、承久の乱で討たれた保盛の子保教を二人で偲んだこともあった〔『明月記』嘉禄元年10月28日条〕。また寛喜2年(1230年)正月、保盛の子高頼は右兵衛佐に任官されるが、高頼はたびたび定家邸を訪問し、定家に公事の指南を受けていた。『明月記』によれば、保盛は寛喜3年(1231年)頃から病がちとなり、天福元年(1233年)、定家邸を訪問した高頼は、定家に「厳父之病、危急云々、今年七十七云々」と語っている〔『明月記』天福元年9月28日条〕。以後、保盛の登場記事はなく、この年に亡くなったものと推定されている〔日下、1995年〕。「今年七十七云々」より、保盛の生年は保元2年(1157年)と推定される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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