|
池内 友彦(いけうち ともひこ、1977年11月1日 - )は、北海道石狩郡当別町出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはDFでセンターバックとサイドバックを務めた。 ==来歴== 室蘭大谷高3年時に全国高等学校サッカー選手権大会でベスト8。1996年に鹿島アントラーズに入団。同期に柳沢敦、平瀬智行がいる。入団当初は右サイドバックでプレーするが、選手層が厚く出番を与えられなかった。当時の鹿島は、鈴木隆行や平瀬に見られるように期待の若手で試合に出られない選手をブラジルに留学させる習慣があり、池内も平瀬と共に留学した。 1998年に一旦鹿島に戻ったもののまたもや出番を得られず、1999年にコンサドーレ札幌にレンタル移籍。札幌では岡田武史の指揮下で主に中盤2列目、ボランチ、また本職のサイドバックとしてもプレーしていたが、レギュラーを奪取するには至らなかった。 札幌で2シーズンプレーした後2001年に鹿島に復帰。復帰後初の国内公式戦でセンターバックとして起用され、サポーターを驚かせた。その後は秋田豊のもとで数々の失敗をしつつもディフェンスの技術を磨き、カバーリングの能力が飛躍的に向上。2003年には試合出場も増えレギュラー奪取まであと数歩と迫るが、同年末に秋田が解雇され、チームの方針として同ポジションの金古聖司を育てるというものがあり、またもう一人のレギュラーである大岩剛とのコンビネーションが合わず(大岩も元サイドバックでカバーリングが得意であり、池内とはプレースタイルが重なった)、また、新人DF岩政大樹の台頭もあり、2004年には出場が激減(その後金古も岩政の台頭で出場機会が激減した)。 2005年よりかつて在籍したコンサドーレ札幌へ完全移籍。開幕当初は曽田雄志のレギュラーを奪い、その後も3バックの一角を占めた。またシーズンを通して得点を重ね、J2におけるDF登録選手の年間得点記録を更新する11得点を決め、チーム内得点王となる活躍を見せた。2006年も順調に出場を続けていたが途中足の故障により出場数が減少。2007年は大柄な選手を望む三浦俊也監督の期待に答え、出場数を積み重ねる。2008年11月28日にクラブから、大塚真司らと共に戦力外通告を受ける。その後、J2複数クラブからオファーを受けるものの自身のブログで引退を発表した。 2009年3月4日にコンサドーレ札幌から育成部スタッフ就任、札幌大学へのコーチとしての派遣、同大学の社会人登録チームで日本フットボールリーグ(JFL)入りを目指す札大GOAL PLUNDERERSの選手として所属することが発表された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池内友彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|