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池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の家臣。池田恒利の子。子に元助、輝政など。 尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。 == 生涯 == 池田恒利と養徳院との間に生まれる。母の養徳院は織田信長の乳母〔コトバンク 池田恒興 〕であり、恒興は信長の乳母兄弟だった〔『戦国人名事典』(阿部猛、西村圭子編)75頁〕。 信長の尾張時代から付き添い、すべての戦闘に従軍した〔。天正8年(1580年)、荒木村重の謀反が発生すると、その一族である荒木志摩守元清が籠城していた花隈城を攻め、落城させた(花隈城の戦い)〔。荒木村重の謀反が終息すると、恒興はその旧領を賜った〔。 天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長が家臣の明智光秀の謀反に遭い、本能寺で自害した(本能寺の変)。恒興は羽柴秀吉と共同して光秀を破り、清須会議の裁定によって四宿老(柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興)に列した〔。 清須会議の後は秀吉に従って賤ヶ岳の戦いに参戦し、その功績から織田信孝(神戸信孝)の旧領13万石と大垣城を与えられた(天正11年(1583年))〔。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは娘婿の森長可と共同で犬山城を攻略したが、羽黒の戦いでは徳川家康の家臣である酒井忠次らに敗れ、敗走した〔。その後、徳川家康の本領・三河国を攻撃しようとした羽柴秀次軍に従軍したが、長久手において討ち死にした〔。享年は49であった〔。 File:Shonyuzuka.JPG|池田恒興戦死の地とされる勝入塚(愛知県長久手市) File:Grave of Ikeda Tsuneoki in Ikeda.jpg|池田恒興の墓(岐阜県揖斐郡池田町本郷) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田恒興」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ikeda Tsuneoki 」があります。 スポンサード リンク
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