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池田 茂政(いけだ もちまさ)は、備前岡山藩の第9代藩主。岡山藩池田家宗家11代。名は茂政のほか、松平昭休、松平忠矩、池田修政。位階勲等は従一位勲二等。 常陸水戸藩主・徳川斉昭の九男。正室は池田慶政の娘・萬寿子。子は池田勝吉(長男)、西尾勝順(次男・西尾忠篤養子のち離縁)、娘(堀川護麿室)、娘(中川久任正室)、娘(佐々木祐哲室)、娘(泉谷祐勝室)。 主な兄弟に水戸藩主徳川慶篤と昭武、鳥取藩主池田慶徳、そして江戸幕府第15代将軍徳川慶喜がいる。 == 生涯 == 徳川斉昭の九男として天保10年(1839年)、水戸藩江戸藩邸で生まれた。幼名は九郎磨。のち斉昭より偏諱を貰って昭休(あきやす/あきよし)と名乗る。 嘉永元年(1849年)8月2日、忍藩主松平忠国の養子となり、忠矩(ただのり)に改名する。嘉永3年(1851年)9月12日、従四位下民部大輔に叙任する。同年12月16日、侍従に任官する。安政3年(1856年)12月16日、溜間詰となる。安政6年(1859年)11月23日、安政の大獄によって水戸徳川家と父・斉昭が処罰を受けると、幕府の顔色を窺った忠国により廃嫡され、水戸徳川家に復籍する。 文久3年(1863年)2月6日、岡山藩主池田慶政の婿養子となり、池田 修政(のぶまさ/ながまさ)と名乗る。同年2月8日、慶政の隠居により家督と藩主を継ぐ。これは当時の岡山藩で、ただの尊皇か、それとも尊皇攘夷を行なうかで藩論がまとまらなかったため、慶政が藩士の江見陽之進の進言を容れて、尊攘派の盟主的な存在であった斉昭の息子を家督に就けることにより藩論をまとめようとしたためといわれる。藩主就任時に14代将軍徳川家茂の偏諱を授かって、諱を茂政に改める。 慶応3年(1867年)10月15日、大政奉還にともない、朝廷から元尾張藩主の徳川慶勝らとともに上洛することを命令される。王政復古の大号令後の慶応4年(1868年)、兄で15代将軍だった徳川慶喜の追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍に参加するように命じられる。しかし、慶喜の弟である茂政は兄を討つための討伐軍に加われるはずもなく、3月15日に朝廷に対して隠退・養子届けを出し、家督を章政に譲って隠居する。 明治32年(1899年)、61歳で死去した。神号は五十武彦茂政命。墓所は岡山県備前市吉永町和意谷池田家墓所。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田茂政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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