|
池田 吉泰(いけだ よしやす、貞享4年6月24日(1687年8月1日) - 元文4年7月23日(1739年8月27日))は、江戸時代中期の大名。因幡国鳥取藩3代藩主。鳥取藩池田家宗家5代。 鹿奴藩初代藩主池田仲澄の長男。母は水戸徳川家分家・常陸国保内藩初代藩主松平頼隆の娘・涼月院菊子。義父は鳥取藩2代藩主池田綱清。正室は加賀藩4代藩主前田綱紀の三女・敬姫(宝林院)。子は池田宗泰(長男)、娘・亀姫(瑤台院、佐賀藩6代藩主鍋島宗教と婚約するも早世)。幼名を長吉、のち鳥取藩世嗣となり勝五郎と改める。初名は輝清(てるきよ)、吉明(よしあき)。官位は従四位下、侍従・右衛門督のち相模守・左近衛少将。 == 生涯 == 元禄8年(1695年)、伯父の鳥取藩2代藩主綱清(初名:輝高)に嗣子が無かったため養嗣子となる。綱清より「清」の字とその旧名から「輝」の字を与えられて輝清と名乗る。元禄13年(1700年)、病気を理由に隠居した綱清より家督を相続する。同年、5代将軍徳川綱吉の面前で元服、綱吉の偏諱を受け吉明(のち吉泰)に改名。従四位下に叙任する。宝永5年(1708年)、正室・敬姫と婚姻する。 藩政では度重なる災害に見舞われ、世情不安から藩の風紀が乱れた。このためたびたび綱紀粛正令や倹約令が出された。吉泰は倹約令を出す一方で、自身は能が趣味で参勤交代の途中などで気に入った能面を買い求め、その数は約800面におよんだ。これは当時の将軍家が所蔵する能面の数よりも多かったと伝えられている。 元文4年(1739年)7月23日に死去し、家督を長男・宗泰が継いだ。法号は天祥院殿機運衍応大居士。墓地は鳥取藩主池田家墓所。菩提寺は龍峯山興禅寺。 側室の横尾氏との間に生まれた亀姫は、吉泰の墓前に吉泰正室・敬姫(宝林院殿建国浄香大姉)と並んで墓碑がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田吉泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|