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池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日 - 1942年(昭和17年)1月8日)は、主に歌舞伎の、劇作家・劇評家、そして翻訳家。 == 生涯 == 池田鉸三郎・乃婦の次男に生まれた。家は、幕末からの銀座の天ぷら屋、『天金』で、兄が金太郎、本人の幼名が銀次郎だった。1891年から私塾の鍋町小学校〔池田弥三郎:『銀座十二章』、旺文社文庫(1980)p.104〕、公立の麹町小学校〔『麹町小學校の百年』麹町小学校創立百年記念会 1974.3〕に通い、商工中学を経て、1907年、早稲田大学英文科を卒業した。 環境から芝居好きに育っていて、東京毎日新聞の劇評を二年書いたのち、1911年(明治44年)、坪内逍遙らの文芸協会の演芸主事となった。文芸協会の1913年(大正2年)の解散後は、東儀鉄笛・土肥春曙らと劇団『無名会』を組織し、翌1914年、第一作『滝口時頼』を上演した。無名会が土肥が没後の1915年に解散してからは、主に書斎の人となり、劇作のほか、英国・中国・ドイツ・フランスの文学に親しんだ。 玄文社の『新演芸観劇合評会』に加わった。二代目市川左団次の相談相手として、自宅に招き招かれる親交を結び、その交わりに永井荷風が加わっていた〔断腸亭日乗 1919 - 1942。〕。 1928年(昭和3年)(43歳)、二児をもうけた妻『あさ』を喪った。その年、二代目左団次のソ連公演に、舞台監督としてに従い、終えて、ドイツ・フランス・イタリーへ演劇巡礼を共にした。1930年に再婚した。 1940年に早稲田大学が着手した『演劇百科大事典』の編纂に携わっていたが、1942年、風邪から急性肺炎を併発して急逝した。 遙か後年の1975年に翻刻出版された訳業『元曲五種』は、次代の碩学吉川幸次郎が正確さと滑らかさに驚く出来だった〔 吉川幸次郎:『跋』(「池田大伍訳:『元曲五種』、平凡社 東洋文庫278(1975)」p.365)〕。その初出の雑誌(雑誌『ひと』(1932 - 1934))を保存していたのは、甥の池田弥三郎だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田大伍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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