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池田 大作(いけだ だいさく、1928年1月2日 - )は、日本の宗教家、作家。宗教法人・創価学会の名誉会長、SGI(創価学会インタナショナル)会長。 山本 伸一(やまもと しんいち)、法悟空のペンネームで作家活動もしている。 == 来歴 == * 1928年 : 1月2日 東京府荏原郡入新井町(現在の東京都大田区大森北)〔古川利明 『シンジケートとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年11月20日) ISBN 978-4-8074-9924-3 〕〔新「創価学会」を斬る【第7回】(『週刊新潮』2003年12月18日号)〕〔『月刊ペン』1976年5月号(月刊ペン社)〕に誕生〔溝口敦 『池田大作 権力者の構造』(三一新書(1972年3月)、講談社(2005年9月) ISBN 978-4-380-72004-8 ISBN978-4062569620 〕〔『週刊宝石』(1996年4月号)〕。 * 1940年 : 3月 尋常小学校卒業の後、兄が勤めていた「新潟鐵工所」に就職〔。 : 8月 肋膜炎を患い茨城県の結核療養所へ入院するための順番待ちをしていた中で終戦を迎える〔。 : 9月 新橋にある「昭文堂印刷」で文選工をする傍ら、私立の「東洋商業高校」(現、東洋高等学校)に編入〔。 * 1946年 : 東京都大田区森ヶ崎にある「協友会」に加入〔「協友会」は東大出身の経済学者が主導していた20名ほどの青年グループであり、文化・芸術・政治・経済・哲学などを研究していた。〕〔『財界』(財界研究所 1967年8月1日号)〕。 : 高校卒業と同時に「昭文堂印刷」を退社。半年後、京急蒲田駅裏にある中小企業の組合「蒲田工業会」(現:「蒲田工業協同組合」)に勤務〔加盟業者への社会保険の指導と業界内の連絡などの仕事を任される。〕。 * 1947年 : 3月、東洋商業学校を卒業。 : 8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教や哲学のいい話がある」と誘われ座談会に出席。戸田城聖の御書講義、小平芳平の折伏を受け、入信を決意、8月24日、創価学会に入信手続きを行なう〔『聖教新聞』(1957年)〕〔。入信したことで、家からは勘当状態になる〔《→アーカイブ 》〕。 * 1948年 : 「大世学院」(後の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に入学。 * 1949年 : 1月3日 「日本正学館」に入社〔。少年雑誌『冒険少年』(同年8月に『少年日本』と改題)の編集に携わる。 : 5月 「日本正学館」編集長に就任〔。 : 「大世学院」を中退〔『朝日新聞』(1965年2月)「新人国記」〕〔創価学会の会長になった後、卒業論文を提出し、1968年に経済科の卒業が認められた。〕。 : 10月 「東京建設信用組合」に入社。 * 1950年 : 10月 「大蔵商事」(現:「日章」)に移動〔当時の『聖教新聞』の名刺広告に「大蔵商事」の幹部としての肩書きが載っている。『週刊新潮』平成15年(2003年)12月18日号〕。 * 1951年 : 5月3日 戸田が創価学会の第2代会長に就任。 : 5月 蒲田支部大森地区の地区委員に任命される。 : 7月 青年部(男子部)が結成され、第1部隊長になる〔。 * 1952年 : 2月9日 創価学会青年部の教育参謀に〔。 : 3月 参謀室長となる。 : 5月3日 白木香峯子と結婚〔。 * 1953年 : 11月25日 長男博正の誕生を期に、正式に「太作(たいさく)」から「大作(だいさく)」に改名〔〔戸口浩 『創価学会の真実―「地涌正統」からの通信』(日新報道 1992年4月)P200 ISBN 4-8174-0278-4〕。 * 1954年 : 2月 第一庶務課の女性会員と池田が結婚前から不適切な関係にあったとの密告が戸田会長に入る。事実関係を調査した後、戸田は第一秘書課の女性会員を除名処分、池田大作へは厳重注意を言い渡した〔。 : 3月30日 青年部参謀室長に任命される〔。同日 設置された「情報部」の最高顧問ともなる〔。この頃、「大蔵商事」の仕事を離れる〔。 : 12月3日 新設された「渉外部長」を兼任。 * 1957年 : 7月4日 参院大阪選挙区の補欠選挙において、自分の部下にあいりん地区の日雇い労働者達に候補者名の氏名が入ったタバコや現金を渡すようを指示したとして公職選挙法違反(買収)の疑いで逮捕、大阪東警察署と大阪拘置所に勾留。 : 7月29日 創価学会幹部45人と共に起訴される。後に検察官より禁固10か月の求刑を受ける〔『朝日新聞』 1957年7月29日付夕刊〕。 * 1958年 : 4月2日 戸田が死去()。 : 4月20日 戸田の「学会葬」で司会を務める〔大白蓮華2010年4月号P28「会長就任50周年記念企画 永遠に師と勝利を共に」〕。 : 6月 自ら新設した総務を青年部参謀室長と兼任〔古川利明 『システムとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年10月25日) ISBN 978-4-8074-9922-9 〕。 * 1959年 : 6月2日 第5回参議院議員通常選挙において選挙参謀を務め政敵の石田次男を参議院選挙の候補者に推薦する。 : 6月30日 青年部参謀室長を辞任し参謀室の北条浩、龍年光と共に創価学会理事に就任。〔。 * 1960年 : 3月30日 戸田の三回忌法要を前に、戸田会長から「池田大作に創価学会を継がせるように」との遺言があったと主張〔藤原行正「池田大作の真実」〕。池田を支持する青年部を中心に池田会長就任に反対する幹部や戸田の遺言に懐疑的な幹部を数の力で圧倒〔藤原行正「池田大作の真実」〕〔大白蓮華2010年4月号P39「会長就任50周年記念企画 永遠に師と勝利を共に」〕。 : 5月3日 創価学会第3代会長に就任。戸田の七回忌までに300万世帯の信徒獲得〔 大白蓮華2010年4月号P32「会長就任50周年記念企画 永遠に師と勝利を共に」〕と邪教撲滅を目標に掲げる。 : 6月 理事で参議院議員の石田次男を会長に推す幹部が、学会内に別組織『顕徳会』を立ち上げた。顕徳会の意志に池田会長就任に反対する幹部や戸田の遺言に懐疑的な幹部など約200名ほどが賛同〔「創価学会に内乱起る・鉄の団結にいどむ顕徳会」 『週刊公論』昭和35年7月12日号〕。また約15万世帯の会員が池田会長就任に反発し創価学会を脱会した〔『文藝春秋』昭和35年9月16日号〕。 * 1962年 : 1月25日 「大阪事件」で無罪判決が言い渡される。もし、有罪判決が確定すれば、池田は宗教法人法第21条3項の規定で刑期期間満了まで創価学会の役職を退かなければならなかった。 * 1964年 : 5月3日 第27回本部総会において、政党の創設と衆議院進出、ならびに正本堂の建立・寄進の計画を発表。 : 宗門から法華講総講頭に任命される。 : 11月17日 「公明党」を結成。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、「『王仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とする」旨を謳う。 * 1965年 : 1月1日 『聖教新聞』紙上で小説『人間革命』の連載を始める。 : 5月 元学会員と名乗る女性から日達の元に池田が京都・福岡・札幌など地方に行く際は、あらかじめ地元の幹部に夜伽のための女性信者を用意するよう要請、中には女性会員との間に子供(私生児)がいる、私も池田の夜伽のために用意された一人との訴えが起こる。 日達は地元幹部から夜伽の話があったことを突き止めたが、訴え出た女性が学会員であるという確証が取れなかったことや創価学会との関係性強化を第一に考えこの問題を不問とした〔『妙慧』昭和35年9月15日号〕。 * 1968年 : 9月8日 第十一回創価学会学生部総会における講演で、中華人民共和国の正式承認と日中国交正常化、中国の国連加盟などを提言。 * 1970年 : 創価学会と公明党に対する批判本に対して、創価学会員、公明党議員らが出版・流通を妨害したとされる「言論出版妨害事件」に関し、野党議員が池田の証人喚問を要請〔公明党と自民党の反対により、実現には至らなかった〕。 : 5月3日 創価学会第33回本部総会において、「言論妨害という意図はまったくなかったが、結果として、妨害と受けとられ、関係者に圧力を感じさせ、世間にもご迷惑をかけてしまったことは、まことに申し訳ないと残念に思っております」〔『週刊実話』 1970年5月18日号〕と謝罪、公明党と創価学会の分離を約束。 * 1974年 : 9月 ソ連を訪問し、アレクセイ・コスイギン首相と会見。 : 10月29日 創価学会の代表役員を辞任し、北条浩が代表役員並びに理事長に就任。 : 11月 『中国の人間革命』(毎日新聞社刊)を出版 : 12月29日 松本清張の仲介により、日本共産党の宮本顕治委員長と松本の自宅で会談。創価学会と日本共産党とが互いの存在を認め、相互不干渉を約束する、いわゆる「創共協定」を結ぶ(発表は約7ヶ月後の翌1975年7月)。 : 創価学会本部総会で、「七つの鐘」構想を発表。1990年までに広宣流布の総仕上げを目標に掲げた。 * 1975年 : 1月1日 創価学会本部において本尊の開眼入仏法要を行う〔『 聖教新聞』 1975年(昭和50年)1月4日付〕〔原島嵩 『池田大作先生への手紙―私の自己批判をこめて』(晩声社 1980年8月)〕。 : 1月 創価学会の世界的組織、SGI(創価学会インタナショナル)の会長に就任。 * 1976年 : 池田と創価学会員との不倫関係を報じた月刊誌『月刊ペン』に対し、名誉毀損に当たるとして創価学会及び相手とされた創価学会員らと共に月刊ペン社の発行人と編集長隈部大蔵を刑事告訴。 : 8月 宮本委員長から「創共協定」を遵守するようにと、会見を申し込まれるが、拒否。公明党からの異論が大きくなり(この件に関して後年、当時創価学会の顧問弁護士であった山崎正友の暗躍が取り沙汰されている)、「創共協定」はなかったこととなる。 * 1977年 : 1月15日 第9回教学部大会で「仏教史観を語る」と題する講演を行う。寺院否定論など、独自の教義を打ち出し、創価学会独自の経本を作る。(「昭和52年路線」)これに反発した日蓮正宗内の若手僧侶が創価学会の教義逸脱を正すという活動を始める。 * 1978年 : 6月30日 「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱を是正することを『聖教新聞』紙上で表明。 : 9月3日 『聖教新聞』が本尊模刻の事実を認める記事を掲載〔。創価学会側は本尊の謹刻について事態の収拾のために他の7体の本尊は総本山へ納められることとなった。 : 11月7日 本尊謹刻などについての院達を不服とする一部宗内を治めるため、創価学会創立48周年記念登山代表幹部会として、2千人の創価学会幹部、全国の教師と共に大石寺に登山を行い、本尊模刻を初めとする教義逸脱を謝罪(おわび登山)〔。 * 1979年 : 4月24日 日蓮正宗との問題で創価学会会長を引責辞任。新しく創設したポストである名誉会長に就任。終身制だった会長職を5年の任期と変更、後任の会長には北条浩が就任。 : 4月26日 法華講総講頭を引責辞任。他の法華講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約束。日蓮正宗の管長日達より、法華講名誉総講頭の辞令をもらう。 : 5月3日 日蓮正宗の法主、日達が池田名誉会長ら創価学会幹部の反省を受け入れ、問題の収束を宣言。 * 1981年 : 12月池田大作が会長職を辞任した際、北条をはじめとする創価学会幹部達に創価学会の財産は池田家の所有であるという誓約書に署名させていた情報を自由民主党が入手、池田の参考人招致を画策する。公明党は竹入義勝委員長、大久保直彦国対委員長が自民党の金丸信国対委員長と会談。池田への参考人招致を見送ることを条件に「日米安保存続」と「自衛隊の条件付合憲」に政策を転換した。〔朝日新聞 1981年12月2日付〕〔朝日新聞アエラ編集部 『創価学会解剖』(朝日新聞社 2000年1月1日) ISBN 978-4022612861〕 * 1982年 : 10月15日 東京地裁における『月刊ペン』に関する差し戻し裁判(第27回公判)に検察側の証人として出廷。 * 1983年 : 1月25日 「SGIの日」記念提言を発表(これ以後、毎年発表)。 : 6月 ルーマニアを訪問、当時の大統領だったニコラエ・チャウシェスクと会談。「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることがよく、理解できました」との賛辞を贈る〔『聖教新聞』昭和58年(1983年)6月10日付〕。しかしこの6年後ニコラエ・チャウシェスクは長期にわたり独裁政治を行ったとしてルーマニアの人民裁判で死刑判決が下り死刑が執行された。 : 8月8日 「世界保健機関」を初め、国連機関への貢献が評価され「国連平和賞」を受賞。なお、国連平和賞は国連の名称が付いているが、国連の公用語〔英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語など〕。には国連平和賞の名称がない。また国際連合(United Nations)は同賞を制定、発行していない。 * 1984年 : 1月2日 日達の後を継ぎ、67世の法主となった 日顕により再び「法華講総講頭」に再任される。 * 1990年 : 11月16日 第35回本部幹部会において、宗門および日顕を批判。 : 12月13日 日蓮正宗より創価学会に対して池田のスピーチの真意を問いただしたが「出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができない」と創価学会は拒否。 : 12月27日 日蓮正宗は法華講総講頭に任期制を導入。これにより任期終了と共に池田が法華講総講頭の資格を自動的に失う。 * 1991年 : TBSの取材に対し日蓮正宗との対立については、「より高い次元に行くための現象」と説明、日蓮正宗からの独立をきっぱりと否定。 : 11月28日 創価学会とSGIが日蓮正宗から破門される。 * 1992年 : 8月11日 池田自身を含む全創価学会員が日蓮正宗から信徒除名処分。 * 1993年 : 7月7日 沖縄県糸満市で行われた創価学会総会で池田が。後に発言を録音したマスターテープが流出し一部で不適切発言が話題となる。 : 日寛の本尊を創価学会が会員に配布。 : 8月8日 第69回創価学会本部幹部会において、細川連立政権の内閣発足前日に公明党が大臣ポストを獲得したと語ったことが、国会で問題となる〔第129回国会 衆議院 予算委員会 第8号 平成6年(1994年)5月24日(議事録 )〕当時創価学会会長であった秋谷栄之助は国会で、「当日の新聞の閣僚予想記事の内容を話したのであって、党から何か事前に連絡や相談があったのではない」という旨を説明。 : 9月24日 アメリカのハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して講演。 : 12月18日 オウム真理教が池田殺害を計画。創価大学キャンパス内でサリンを噴霧。池田は被災を免れるが、牙城会員数人が被災。新実もサリンを吸い込み一時重体に陥る。 * 1995年 : 4月 『中央公論』1995年4月号において、田原総一朗と対談。14年ぶりに国内ジャーナリストのインタビューを受ける〔朝日新聞アエラ編集部 『創価学会解剖』(朝日新聞社 2000年1月1日) ISBN 978-4-02-261286-1 〕。 : 11月28日 宗教法人法改正の問題で、当時、改正に反対していた池田を参考人招致しようとする自民党に対し、公明党系の新進党国会議員やその秘書ら約300人が、佐々木満委員長を委員長室に閉じ込め、 ピケを張り、座り込みをして審議再開を妨害。最終的に法律上創価学会責任者ではない池田の招致は見送られ、法律上の代表者となっている秋谷栄之助会長を招致することで決着。 * 1996年 : 2月11日 「戸田記念国際平和研究所」を設立〔。 : 6月、女性信者が過去数回にわたり池田から強姦を受けたという訴えを起こされる。 * 1997年 : 12月1日 日蓮正宗の一部改正に伴い、創価学会員の日蓮正宗の檀信徒資格が喪失。 * 1998年 : 11月27日 東京・元赤坂の迎賓館で中華人民共和国主席江沢民と会談。 * 1999年 : 6月4日 フィリピンのジョセフ・エストラーダ大統領と会談。 * 12月6日、創価学会の機関紙、創価新報に掲載された記事および写真に対する宗門との民事裁判で、東京地方裁判所は宗門の訴えを全面的に認め、被告の池田大作、および創価学会に対し原告1人当たり200万円の支払いと、機関紙における謝罪記事の掲載の命じる判決が下った。〔偽造写真事件判決全文 〕 * 2002年 : 中華人民共和国主席胡錦涛と会談 : 池田は会則を変更し、初代会長牧口常三郎、第2代戸田、第3代池田の「三代会長」を、「永遠の指導者」とする規定を入れる。 * 2003年 : 中華人民共和国首相温家宝と会談 : 3月22日 元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフと会談。 : 4月末〜6月にかけて、池田が重病で入院したという情報がマスメディアを駆け巡る。脳梗塞や心臓病だとの憶測が飛んだが、創価学会広報室は「風邪と疲労で体調を崩した」とのコメントを出す。以後、複数回にわたり重病説や死亡説がマスメディアを駆け巡る事がおおくなった。 * 2004年 : 12月 アメリカの世界的経済誌『フォーブス』(Forbes、2004年12月27日号)は、2004年9月6日号に「先生の世界」(「Sensei's World」)と題して、池田及び創価学会に関する記事を特集し掲載。 * 2006年 : 11月30日 国際原子力機関(IAEA)のM.エルバラダイ事務局長と会談。 * 2007年 : 4月12日 来日中の中華人民共和国首相温家宝と会談。日中友好を訴えた〔公明党幹部はこの来日は、日中間の政治問題となっている「首相の靖国神社参拝問題」に釘を刺す狙いがあるとの見方を示した。〕首相の国会演説を「不滅の名演説だった」と讃える〔温家宝首相が創価学会の池田大作名誉会長と会談捏造記事 (asahi.com 2007年4月12日20時51分)〕。 * 2008年 : 5月8日 中華人民共和国主席胡錦涛と会談〔『聖教新聞』2008年5月9日付捏造記事〕。 * 2010年 : 5月の本部幹部会以降、体調不良から創価学会内の公式行事を全て欠席、現在へ至る。そのため重病説や死亡説が一部マスメディアで取り上げられた〔週刊新潮2010年9月22日号〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田大作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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