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池田種徳[いけだ たねのり] 池田 種徳(いけだ たねのり、1831年(天保2年10月) - 1874年(明治7年)9月12日〔『明治維新人名辞典』「池田徳太郎」64頁。〕)は、幕末の広島藩士・浪士組取締役、明治期の内政官僚。権令。通称・徳太郎、雅号・快堂〔。 ==経歴== 安芸国豊田郡忠海村(現広島県竹原市)で、医師・池田元琳の長男として生まれる〔〔『幕末維新大人名事典』上巻、98-99頁。〕。医術より儒学を好み、九州に遊学し広瀬淡窓、筑前の亀井陽州(革卿)・調黄溪らに学んだ〔「贈位内申書 池田種徳(広島県)」〕。その後、江戸に遊学。清河八郎、伊牟田尚平、安積五郎、村上俊平などの志士と交わり、幕府の嫌疑を受け一時、獄に入れられた〔。文久3年(1863年)、徳川家茂の上洛を警護する浪士組取締役となる〔。幕府に攘夷の意思がないことを悟って浪士組を脱し、広島藩の加藤七郎兵衛、船越洋之助(船越衛)に匿われた〔。元治元年9月(1864年10月)広島藩士となり国事に奔走した〔。 王政復古後、慶応4年7月(1868年)、徴士軍務官権判事に就任。戊辰戦争に東北遊撃軍将副参謀、同参謀として転戦した〔。明治元年12月(1869年)、権弁事、同月、常陸知県事、明治2年2月(1869年)、若森県権知事、明治4年11月(1871年)、新治県権令と地方官を歴任。明治5年1月20日(1872年2月28日)、島根県権令に就任。同年9月27日(10月29日)、岩手県参事に転任〔『新編日本の歴代知事』776頁。〕。1874年2月、青森県権令に就任。しかし病のため東京で療養するが在任中に死去した〔〔『新編日本の歴代知事』93頁。〕。
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