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池田 駿介(いけだ しゅんすけ、1940年11月11日〔『宇宙船』Vol.129『追悼:池田駿介』文中より〕 - 2010年6月11日)は、日本の俳優、モデル。本名は池田 紀生(いけだ のりお)。 神奈川県川崎市出身。身長174cm。法政大学第二高等学校、法政大学卒業〔。SOS(ソサエティ・オブ・スタイル)モデルエージェンシーに所属していた。 == 来歴・人物 == 殺陣師の大内龍生(大野剣友会創設者大野幸太郎の師匠)を父に持ち、劇団文化座の研究生を経て、1962年に東映ニューフェイス第10期生となる〔東映の友 1962年 4月号 45頁。〕。同期には小林稔侍・吉田豊明がいた。数本の映画に端役で出演した後、1963年、映画『白い熱球』の野球部員・篠原役で正式にデビューを果たす。 テレビドラマは1963年『戦友』の藤村一等兵役で初出演し(当時の芸名は池田紀生)、『風来物語』では主演、『ゼロ戦黒雲隊』『刑事さん』などにレギュラー出演する。東映を離れ、天知茂に師事。天知主演の『ローンウルフ 一匹狼』や『日本剣客伝』などのドラマに出演した。 1971年、円谷プロダクション制作の『帰ってきたウルトラマン』で南猛隊員を演じ、頼れる兄貴分的な役柄を演じた。その後も『シルバー仮面』『緊急指令10-4・10-10』など特撮作品の出演が続き、1973年には古巣の東映で『キカイダー01』の主役に抜擢される。この当時、32歳で子供向けヒーロー番組の主役を演じるのは異例なことであったが〔翌年の『ウルトラマンレオ』では、やはり31歳の森次晃嗣が隊長役、同年の『おもちゃ屋ケンちゃん』では27歳の岸久美子がお母さん役を演じている。当時の30代はれっきとした中年であったが、池田は明るく若々しいイメージで演じている。〕、結果的に成功。このイチロー役は特にハワイで有名で、現地ではまるで神様のような人気と扱いであり、『帰ってきたウルトラマン』にて共演した団時朗に「俺も神様みたいになりたいよ~!」と羨ましがられていた。 なお、1985年頃に東京・世田谷で「ゼロワン・チェーン」というたい焼きのお店を経営していた事があり、キカイダーファンの巡礼地になっていた事が、雑誌『ファンロード』で池田へのインタビュー記事と共に紹介された事がある。 晩年は主にCMや舞台のほか、『ウルトラマン』『キカイダー』関連のイベントなどで活躍していた。 2010年6月11日午前3時10分、胃癌のため千葉県の病院にて死去〔【訃報】「キカイダー01」の池田駿介さん、胃がんのため逝く 日テレNEWS24 2010年6月14日閲覧〕〔池田駿介氏死去 俳優 共同通信 47NEWS 2010年6月13日閲覧〕。。 2010年6月16日の葬儀では東映の同期であった小林稔侍が弔辞を読み、故人を偲んだ。祭壇には撮影で実際に使われたイチローのヘルメットとトランペットが飾られ、献花の際は『帰ってきたウルトラマン』OP曲がながれ、出棺の際には『キカイダー01』のテーマ曲が流れながら旅立った〔『宇宙船』Vol.129『追悼:池田駿介』文中より。〕。生前に「俺が死んだらハワイの海に(骨を)まいてくれ」と語っており〔池田駿介さん告別式…同期の小林稔侍「何とも言えない気持ち」 - 日テレNEWS24、2010年6月16日より。〕、誕生日である11月11日に、ハワイでお別れ会と散骨がおこなわれた。 また『帰ってきたウルトラマン』で共演した団時朗、西田健、『キカイダー01』で共演した伴大介が追悼の辞を雑誌『宇宙船』Vol.129『追悼:池田駿介』の特集記事に寄せている。3人とも偶然にも池田が死去する直前に別のインタビューに答えていた。 2010年7月に放送するはずだった東映チャンネルの『ピンスポ』と2010年8月発売の東映ヒーローMAXのインタビューに答える予定で承諾も得ていたが、収録日予定日だった5月下旬に再入院しそのまま死去したためどちらも叶わなかった〔2010年、東映ヒーローMAX,8月号より〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田駿介」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shunsuke Ikeda 」があります。 スポンサード リンク
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