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池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督、脚本家である〔''池田義信''、日本映画データベース、2012年6月18日閲覧。〕〔''池田義信''、デジタル版 日本人名大辞典+Plus, コトバンク、2012年6月18日閲覧。〕。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)〔。映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任〔。 == 人物・来歴 == 1892年(明治25年)3月10日、長野県上水内郡三輪村(現長野市)に生まれる〔。 長野郵便局(現在の長野中央郵便局)勤務を経て、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所に入社、新派系の演出家賀古残夢、野村芳亭に師事する〔〔。翌1921年(大正10年)には、田中欽之が監督した『親なき娘』の脚本を書く〔。同年10月21日に公開された、柳川春葉原作、伊藤大輔脚本、栗島すみ子主演の映画『生さぬ仲』で監督に昇進している〔〔。 1923年(大正12年)、女優の栗島すみ子と結婚する〔、2012年6月18日閲覧。〕。同年9月1日に起きた関東大震災で松竹蒲田撮影所は稼動不能になり、松竹下加茂撮影所に移転する〔。翌1924年(大正13年)2月には、すでに蒲田が復興し、池田は『スヰート・ホーム』を発表している〔。 1932年(昭和7年)8月19日に公開された、栗島すみ子主演の『情人』で、初めてトーキーを手がけるが、以降もサイレント映画、劇伴の入ったサイレント映画であるサウンド版も手がけている〔。1936年(昭和11年)、新しく建設された松竹大船撮影所に移り、トーキー『結婚の条件』を撮り、同年12月19日に公開された田中絹代主演のトーキー『わが母の書』を最後に、映画監督を引退した〔。1937年(昭和12年)、妻の栗島すみ子もまた引退している〔。 1945年(昭和20年)12月1日に発足した「映画製作者連合会」(のちの日本映画連合会、現在の日本映画製作者連盟)の初代事務局長に就任する。1951年(昭和26年)、「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)の副委員長を兼任した。 1973年(昭和48年)9月1日、死去した〔。満81歳没。妻の栗島が死去したのは1987年(昭和62年)8月16日であった〔。長男は日本テレビ放送網ディレクターの池田義一。 2012年(平成24年)6月現在、池田の監督作のうち、現存し、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵される上映用プリントは、『不如婦』(『ほとヽぎす』、1922年)、および『小唄集 第二篇 ストトン』(『ストトン節』、1924年)の2作のみである〔''池田義信''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年6月18日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田義信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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