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池田 行彦(いけだ ゆきひこ、1937年5月13日 - 2004年1月28日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正三位。勲等は旭日大綬章。旧姓は粟根。 衆議院議員(10期)、総務庁長官(第7代)、防衛庁長官(第50代)、外務大臣(第124、125代)、内閣官房副長官(鈴木善幸内閣)、自由民主党政務調査会長(第42代)、自由民主党総務会長(第40代)等を歴任した。 妻・紀子の父は内閣総理大臣を務めた池田勇人。姪・慶子の夫は衆議院議員の寺田稔。 == 来歴・人物 == 兵庫県神戸市生まれ。父・粟根信行は行彦が7歳の時に死去し、その後、父の郷里である広島県広島市へ移る。1945年8月6日の原爆投下時には被爆を免れた。1951年、東京都へ転居する。東京都立日比谷高等学校、東京大学法学部を卒業し、1961年に大蔵省へ入省する。1964年から外務省に出向し、ニューヨーク総領事館に勤務する。1968年5月に大蔵省に復職する。元首相・池田勇人の次女・紀子と結婚し、以後池田姓を名乗る。大蔵省では広島国税局間税部長や大平正芳蔵相秘書官を務め、1975年に大蔵省を退官した。 1976年、第34回衆議院議員総選挙に自由民主党の公認を受け、義父の地盤を引き継いで旧広島県第2区から出馬し、初当選を果たした(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・甘利正など)。以後10期連続当選〔旧広島2区は池田の他、中川俊思・秀直、谷川和穂、増岡博之(自由民主党)、森井忠良(日本社会党)ら有力候補がひしめき、竹下登をして「日本一の殺戮的選挙区」と言わしめるほどの激戦区であったが、旧広島2区の有力候補の中で唯一、池田には落選経験がない。〕。当選後は池田勇人が設立し、かつて大蔵省で大臣秘書官を務めた大平正芳が会長を務める大平派に入会した。 1981年、鈴木善幸内閣で内閣官房副長官(政務)に就任する。1989年、宇野内閣で総務庁長官に任命され初入閣を果たすが、直後に宇野宗佑首相の女性スキャンダルが発覚し、宇野内閣はわずか69日で退陣に追い込まれた。1990年、第2次海部改造内閣で防衛庁長官に任命される。おりしも湾岸戦争の最中であり、1991年4月、池田防衛庁長官は海上幕僚長に対し「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理の実施に関する海上自衛隊一般命令」(平成3年4月24日海甲般命第18号)を発令。これにより海上自衛隊のペルシャ湾への派遣が行われ、これは自衛隊初の海外実任務であった。 1996年、第1次橋本内閣で外務大臣に就任する。外相在任中は日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の見直し作業、ペルー日本大使公邸占拠事件の解決に尽力した(ただしテロリスト側からの池田本人と人質との交換要求は即座に拒否している)。また1996年2月、韓国政府による竹島での接岸施設建設計画が報道された際には「竹島は日本の領土」と韓国政府に抗議し、建設中止を求めた。これを契機に日本大使館前に韓国人のデモ隊が押し寄せたり、日章旗や池田を象った人形を焼いたり、韓国国内で日本糾弾の嵐が吹き荒れた。金泳三大統領も池田の発言に対し「そうした妄言は容認できない。断固として対処していく」と反発した。この時が竹島の領有権問題を根本的に解決する好機だったと言われているが、反日の動きが激しくなると橋本内閣は竹島問題に触れることを避けるようになり、結局日本側が譲歩する形で事態の鎮静化が図られた。外相は第2次橋本内閣まで務める。 1998年、小渕恵三自由民主党総裁の下で自由民主党政務調査会長に就任。翌1999年の自由民主党総裁選挙では、政調会長在任中だった池田は宏池会会長の加藤紘一に出馬辞退を求めるが、加藤はこれに応じず出馬を強行し、小渕に敗れる。その後、自自公連立政権発足を受けて小渕は内閣改造、党役員人事を行い、池田を自由民主党総務会長に横滑りさせた(後任の政調会長には亀井静香が就任)。この際、加藤は総務会長に小里貞利を推していたが、小渕は自身に反旗を翻した加藤による推薦を退け、加藤に出馬辞退を求めた池田を一本釣りする形で起用している。しかし、総務会長就任により池田は加藤の怒りを買うことになった。小渕首相が危篤に陥った際は、党三役の1人であったものの後継首班を内定したいわゆる五人組には体調が悪かったこと、また党務が苦手だったこともあり出席せずに随時電話連絡を受ける形で「森首班」に同意。2000年の第1次森内閣発足後も総務会長に留任したが、第2次森内閣の発足に伴う党役員人事により離任。 2000年11月に起きた加藤の乱では加藤紘一、その盟友山崎拓の不信任決議案同調の動きに反発した宮澤喜一元首相や堀内光雄ら反加藤グループの中核を占め、加藤・山崎の動きを頓挫させた。 2004年1月28日、直腸癌のため三井記念病院にて死去。享年66。同年3月18日の衆議院本会議における追悼演説は、遺族の願いによって、自民党時代に幹事長、副幹事長の関係だった縁で小沢一郎が行った。同年4月に行われた補欠選挙では、姪・慶子の夫である寺田稔が初当選した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田行彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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