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池田 盛周(いけだ もりちか、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。受領名は讃岐守。通称は悪次郎。父は池田盛国。子に盛邦。出羽国飽海郡朝日山城主。 == 生涯 == 天文年間、大宝寺氏(武藤氏)に仕えていた池田盛国の子として誕生。50騎の地侍を従え3000町歩を領した。 出羽朝日山城(現在の山形県酒田市生石矢流川)を拠点とする出羽池田氏は、平安時代中期頃に藤原秀郷の嫡流藤原仲光が、都より摂津国池田の地に土着し池田氏を名乗ったことが起源と伝えられている。その後、平安時代末期に至り平家に仕えたという池田源三郎快光の後裔・池田秀盛が、治承・寿永の乱(源平合戦)に敗れたのち5人の兄弟と共に鳥海山麓に逃れ、その後生き延びた子孫たちが建武年間(1334年 - 1338年)に築いた山城が朝日山城であるといわれている。盛周は秀盛から16代目の子孫とされる。家紋は「丸に揚羽蝶」である。 はじめ大宝寺氏に仕え、若くして武将としての頭角を現し、方々の戦に従軍しては戦功を挙げていたという。 天正11年(1583年)、主君・大宝寺義氏が家臣の謀反により自刃すると、最上義光と通じて家督を継いだ義氏の弟・義興に抵抗したため所領を没収されるが、後に許され所領を安堵された。義興の死後、天正16年(1588年)に大宝寺氏の家督をめぐる争いである十五里ヶ原の戦いにおいて最上勢として参加。大宝寺義勝を擁する越後国の上杉氏家臣・本庄繁長と戦い、朝日山城に籠り最後まで抗戦するも降伏(朝日山城の戦い)、義勝に所領を安堵された。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による太閤検地が行われると、これに反対した地元農民の土一揆に加勢し朝日山城は一揆軍の拠点となった。同年12月に敗れ、鮭延城主・鮭延秀綱の下に逃れた。この時から悪次郎と名乗り、治水で功績を挙げた。 慶長5年(1600年)、慶長出羽合戦において、子の盛邦及び舎弟の忠内と共に再び朝日山城に籠もる。上杉家臣・志駄義秀と戦い敗れるが、同年の関ヶ原の戦いにおいて東軍が勝利したことにより、最上勢が勝利をおさめる。翌慶長6年(1601年)、志駄義秀が酒田東禅寺城を開城し、庄内が最上氏の領地となると、盛周は旧功を認められ、旧領荒瀬郷古川村100石を賜り、酒田に入部した最上氏の重臣・志村光安に仕えた。 盛周の死亡年は不詳だが、荒瀬川の南蓬田原に葬られたと伝えられている。 元和8年(1622年)、最上家が改易となり、以後庄内藩や新庄藩の治世となると、盛周の家は帰農して長い間大肝煎をつとめたといわれている。他にも庄内を中心に帰農した家系がおり、今でも庄内地方の旧家には池田姓が見られる。中には庄内藩士となったり、上杉家臣から米沢藩士となって幕末を迎えた家系もあるという。 現在、池田讃岐守の甲冑などが酒田市立資料館に展示されている(ただし常設展示ではない)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田盛周」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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