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池袋モンパルナス(いけぶくろモンパルナス)とは、大正の終わり頃から第二次世界大戦の終戦頃にかけて、東京都豊島区西池袋、椎名町、千早町、長崎、南長崎、要町周辺にいくつものアトリエ村(貸し住居付きアトリエ群)が存在し、多くの芸術家が暮らし芸術活動の拠点としていた地域の呼称。また、この地域に暮らした画家、音楽家、詩人などさまざまな種類の芸術家が行った芸術活動および熱く語った文化全体もさす。 ==概要== その熱く語った場所が池袋を中心とした繁華街であり、その状況が当時の芸術の中心であったパリ市内の南西部にあるモンパルナス地区に酷似しているとの思いから、その名をあやかって名づけられ、使われた。 「池袋モンパルナス」という表現は、詩人の小熊秀雄が言い出したものとされている。1938年8月サンデー毎日誌の小熊秀雄のエッセイ「池袋モンパルナス」が初出である。しかし、大正末期に岡本一平は、銀座がモンマルトルなら新宿はモンパルナスであると書いたり、1925年にはパリのモンパルナス地区で、のちの独立美術協会となる1930年協会のメンバーによって、その会名に「モンパルナス会」などが候補としてあがり、結局翌年「1930年協会」として発足する。 1940年頃にこの活動は頂点に達するが、戦況の悪化により、多くの芸術家が戦争で召集され、疎開し、さらに1945年4月13日の空襲で打撃を受け終息していく。 戦後は、戦争で家を失った人々が入居もするが、残存した芸術家に新たな芸術家も加わり前衛美術運動の拠点ともなる。安部公房、勅使河原宏、瀬木慎一などが出入りした。 近年、豊島区立熊谷守一美術館やアトリエ村資料室などができ、新たな芸術観光スポットとして「池袋モンパルナス」という言葉も一般に使われるようになってきている。 劇団銅鑼 が1997年に舞台化し、1999年再演し、池袋演劇祭大賞受賞。この公演をきっかけに”池袋モンパルナスの会”が結成され、現在に至っている。 2016年3月、劇団銅鑼が『池袋モンパルナス』を新演出で再演。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池袋モンパルナス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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