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血煙高田の馬場[ちけむりたかだのばば]
『血煙高田の馬場』(ちけむりたかだのばば)は、1937年(昭和12年)製作・公開、マキノ正博監督による日本の中篇劇映画である〔''血煙高田の馬場''、日本映画データベース、2009年10月21日閲覧。〕。第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)、51分に短縮され、『決闘高田の馬場』(けっとうたかだのばば)として再公開された〔''血煙高田の馬場''、日活データベース、2012年11月21日閲覧。〕。 == 製作 ==
1937年(昭和12年)4月にマキノトーキー製作所を解散し、比佐芳武の書いた吉川英治原作の『恋山彦』の脚本を携えて、同じ京都・太秦の日活京都撮影所に入社し〔マキノ、p.338-374.〕、『恋山彦』前篇・後篇を含めて7本目の監督作品が、本作である〔マキノ雅弘 、日本映画データベース、2009年10月21日閲覧。〕。主演の阪東妻三郎も、自らの製作会社阪東妻三郎プロダクションを閉じ、同年に同撮影所に入社し、マキノの監督した『恋山彦』前篇・後篇に主演、巨匠・池田富保監督、山本嘉一主演の『水戸黄門廻国記』での佐々木助三郎役、マキノ正博監督の『国定忠治』、稲垣浩監督の『飛竜の剣』での主演を経て、日活入社後初の正月作品であった〔阪東妻三郎 、日本映画データベース、2012年11月13日閲覧。〕。 原作・脚本にクレジットされている「牧陶三」は、マキノ自身の筆名である〔。1694年3月6日(旧暦元禄7年2月11日)に実際に起きた中山安兵衛(のちの堀部武庸、四十七士の一人)の「高田馬場の決闘」の故事と逸話をベースに、マキノが書き下ろした。八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)から高田馬場(現在の同新宿区西早稲田3丁目)までの「安兵衛の韋駄天走り」を表現した、モンタージュ技法が有名である〔決鬪高田の馬場 『血煙高田の馬場』 改題短縮版 2012 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月11日閲覧。〕。 主人公の中山安兵衛の事件当時の年齢は満24歳、本作では「血を分けた叔父」という設定になっている菅野六郎左衛門は「齢40を過ぎ」とのことであったが、本作公開時点での阪東妻三郎の実年齢は満36歳〔、2012年11月11日閲覧。〕、香川良介は満41歳〔キネマ旬報社、p.140.〕であり、5歳しか違わなかった。長屋で安兵衛とのからみの多い「大工の熊公」を演じた市川百々之助(公開当時31歳)は、10代のころに帝国キネマ演芸(帝キネ)でデビュー、その後、市川百々之助プロダクション(百々プロ)を設立したほどの剣戟映画のスター俳優であり、その妻「お才」を演じた原駒子(公開当時27歳)も松竹下加茂撮影所出身でその後百々之助同様に帝キネで活躍したスター女優であったが、本作撮影時には羅門光三郎とは離婚していた〔無声映画鑑賞会、p.120-121.〕。本作で描かれる物語の終わった後で、安兵衛が養子入りすることになる堀部家の当主・堀部弥兵衛を演じる藤川三之祐は、日活向島撮影所以来の日活俳優(藤川三之助)とは異なる人物で、公開当時は満48歳であった〔藤川三之祐 、''jlogos.com'', エア、2012年11月13日閲覧。〕〔藤川三之助 、日本映画データベース、2012年11月13日閲覧。〕。監督のマキノ同様、マキノトーキー製作所の解散を受けて、いっしょに日活に移籍した原駒子〔、2012年11月21日閲覧。〕、團徳麿(ゲンテキ役、公開当時満35歳)〔、2012年11月21日閲覧。〕、志村喬(楽々亭役、公開当時満32歳)〔、2012年11月21日閲覧。〕、大倉千代子(お妙役、公開当時満22歳)〔、2012年11月21日閲覧。〕、葉山富之輔(河童の勘右ヱ門役、公開当時48歳)〔、2012年11月21日閲覧。〕らが、いずれも主役の阪東に大きくからむ役を得ている。 タイトルになった主題である「高田馬場の決闘」の剣戟シーンのため、撮影前日、マキノは阪東妻三郎を宮川町のホールに連れて行き、ジャズのレコードをかけてダンスを踊り、翌日の本番ではジャズのノリで撮影をしたという〔マキノ、p.401.〕。本作の全撮影日数は7日であった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「血煙高田の馬場」の詳細全文を読む
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