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沈従文 : ウィキペディア日本語版
沈従文

沈従文(しん じゅうぶん、1902年12月28日 - 1988年5月10日)は、20世紀中国作家。小説や散文で知られる。代表作に小説「辺城」がある。中華人民共和国では作品を発表せず、博物館で古代の文物の研究を行った。
== 生涯 ==

沈従文は湖南省鳳凰庁(現在の湘西トゥチャ族ミャオ族自治州鳳凰県)の軍人の家に生まれた。はじめ、名は沈岳煥。湘西の土地は漢族トゥチャ族ミャオ族が住み、沈従文の父方は漢族だったが、母親の黄素英はトゥチャ族であり、また父方の祖母はミャオ族だった。黄素英の兄の孫に画家の黄永玉がいる。
15歳のときに軍隊に加わって、文書係をつとめていたが、文学革命に影響されて文学者になろうと思いたち、軍隊から抜け、北京に出て沈従文と名を改めた。郁達夫の推薦で1924年に処女作「一封未付郵的信」を『晨報』副刊上に発表した。1925年の「市集」が徐志摩に高く評価された〔小島訳(2013)の解説〕。
1928年には当時の文学の中心であった上海に移り、『新月』に『不思議の国のアリス』(1922年に趙元任によって中国語訳されている)をパロディ化した長編小説「阿麗思中国遊記」を発表した。上海では胡也頻・丁玲とともに1929年に雑誌を創刊したが、半年で廃刊になった〔。この時期に短編小説「蕭蕭」、「丈夫」(夫)などを発表している。1929年に中国公学国文科講師、1930年に武漢大学の国文科助教、1931年に青島大学国文科講師の職についた。
1933年には北京(北平)に戻り、中国公学時代の教え子だった張兆和と結婚した。北平では大公報文芸副刊の編集長の仕事についた。翌1934年、沈従文は母親の病気のために故郷に戻った。このとき張兆和との間でかわした手紙をもとに散文集『湘行散記』が書かれた。同年、故郷の湘西がモデルの辺境の町を舞台とし、ミャオ族の歌垣などを折りこんだ悲恋物語「辺城」を発表した。
日中戦争中は奥地に移り、西南連合大学の師範大学副教授の職につき、教科書の編纂を行った。
戦後の1945年に長編小説『長河』の第1巻を出版した(1938年に『星島日報』星座副刊に連載したものを元にする)。本来4巻になる予定だったが、第1巻のみで終わった。
戦後は北京大学の国文科教授になったが、郭沫若は1948年に香港で「斥反動文芸」という論文を発表し、その中で沈従文の文学を文字で書かれたヌード画とし、ピンク(桃紅色)の反動文芸と決めつけた。1949年には沈従文の打倒を訴える壁新聞が北京大学に張られた。沈従文は自殺未遂をおこした後に鬱病で入院した。退院するとすでに国文科教授の職はなくなっており、沈従文は北京大学博物館、のちに北平歴史博物館で文物の研究を行った。その後も沈従文は文学作品を書いたが、公刊されることはなかった〔小島訳(2013) p.366〕。
文化大革命では再び批判され、蔵書をすべて失い、1969年から1972年まで湖北省咸寧市双渓の五七幹部学校に送られた。
文物研究の成果は1981年の『中国古代服飾研究』として出版された。
アメリカ合衆国のジェフリー・キンクリー(中国名は金介甫)は沈従文の研究者として知られ、スウェーデン中国学者の(中国名は馬悦然)とともに沈従文をノーベル文学賞の候補として推薦したというが〔小島訳(2013) p.353〕、受賞することはなかった。1988年にはほとんど受賞者に決まっていたが、同年の沈従文の死のために受賞を果たせなかったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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