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沖 識名(おき しきな 1904年(明治37年)7月6日 - 1983年(昭和58年)12月15日)は、元プロレスラー、その後、日本のプロレスでの元レフェリー。 ==来歴・人物== 沖縄県出身。本名は識名盛夫。ハワイに移住(日系アメリカ人)。ハワイ相撲の横綱やハワイ柔道選手権者として活躍した後、1931年にタロー・三宅(三宅多留次)に出会いプロレスラーとなる。タロー・三宅は、当時アメリカで大活躍をしていた日系レスラーである。1932年1月にデビュー。1937年11月16日にはNWAハワイジュニアヘビー級王座を奪取している。 沖識名は、プロレスラーとしては、なかなかの実力者であり、5人の世界チャンピオンと選手権を争ったことがあるが、惜しいところでタイトルは取れなかった。柔道仕込みの関節技の名手だったという。また、若い頃のルー・テーズにレスリングを教えたことがあるのが自慢のひとつだった。 1948年にプロレスラーとしての現役を引退後、1951年、ハワイでハロルド坂田の誘いでプロレスに転向した力道山のコーチを務める。以後、日本プロレスで長年に渡ってメインレフェリーを務め、特に暴走する外国人レスラーに着ているシャツを破かれてしまい、試合終了後には上半身裸になってしまうシーンが定番だった。 1973年(昭和48年)3月9日、日本プロレスに辞表を提出し引退。この日はNETテレビも『NET日本プロレスリング中継』打ち切り並びに新日本プロレス中継開始(『ワールドプロレスリング』へ再改題)を発表し、この日を境に日プロは一気に崩壊へ向かっていった。前日3月8日に栃木県佐野市で行われ、『NET日本プロレスリング中継』最後の中継試合となったジョニー・バレンタイン対高千穂明久のUNヘビー級選手権試合が最後のレフェリングとなった。同年10月9日の全日本プロレス・蔵前国技館大会で引退セレモニーを行った。 その後、ハワイに帰り、1983年(昭和58年)12月15日没、享年79。奇しくも、ちょうど力道山の20回目の命日であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沖識名」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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