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沢藤光郎[さわふじ みつろう]
沢藤 光郎(さわふじ みつろう、1919年8月10日 - 1987年12月5日)は、岩手県出身のプロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 盛岡商業学校時代の1936年、夏の甲子園にエースとして出場するも〔近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P38〕、初戦で全国制覇した岐阜商業学校に大敗した。 卒業後、釜石製鉄から盛岡鉄道管理局へエースとして活躍し1948年の全国鉄道大会では優勝に貢献した〔。1950年に創設したばかりの近鉄に入団した〔。チーム公式戦の第2戦、1950年3月13日の対南海戦に戦に先発完投勝利を挙げ、これが球団及び自身の公式戦初勝利となる〔。この年は50試合に登板、チーム最多の18勝をマークするも、チーム自体は首位毎日から37.5ゲーム差の断トツの最下位だった。翌年以降も関根潤三・武智文雄らと共に、初期のチームを支えた。チームは低迷期にあり1951年、1952年は16敗、22敗といずれもリーグ最多敗戦を喫している〔。1957年限りで引退後、翌年から1969年までコーチとなり、それ以降もスコアラーを勤めた。1975年後期に近鉄が「初優勝」(プレーオフに敗れたためリーグ優勝とはならなかった)を遂げたときには、ネット裏で直立不動で涙を流して喜んでいた〔。1987年12月5日死去。享年68。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沢藤光郎」の詳細全文を読む
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