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河井荃廬(かわい せんろ、男性、明治4年4月28日(1871年6月15日) - 昭和20年(1945年)3月10日)は、近代日本の篆刻家である。中国に渡り呉昌碩に師事し、金石学に基づく篆刻を日本に啓蒙しその発展に尽くした。 本来、姓は川井であったが戸籍の記帳ミスから河井となる。名は仙郎であるが、修して遷とも署した。幼名は徳松、のちに師の篠田芥津の諱を避けて得松または得とした。号は木僊、のちに荃楼、荃屢、荃廬と改号した。別号に迂仙・蟫巣・九節丈人・知幻道人、堂号に忘荃楼・忘荃屢・六不刻庵・継述堂・宝書龕などがある。京都の人。 == 経歴 == 京都寺町の腕利きの印判師として知られる川井仙右衛門の長男として生まれる。上京第30組小学校(現在の京都市立京都御池中学校)に入学。恩師神山鳳陽に教えを受け、また鳩居堂の熊谷直之と同窓となる。卒業後、林雙橋の元で詩文を学び、20歳近くになって篠田芥津の門下となって篆刻を学ぶ。この頃、田中文求堂より金石書を入手し丹念に書写している。数年後、師の勧めで同門の杉山雲津とともに篆刻の頒布会を作る。 27歳の頃、呉昌碩への敬慕が止まず手紙を送ると思わず昌碩の返信を受け取る。以降手紙による添削指導を受けるが、ますます清国への思いが募り、渡航費用を捻出する為に岐阜に赴き、好事家の求めに応じて印を売っている。29歳のとき父が死去するが、家業は番頭に任せ自身は篆刻に没頭した。30歳にて、ついに念願の清国渡航を実現し、上海の昌碩と親しく交わっている。このとき田中文求堂の田中慶太郎も同行している。その後、毎年あるいは年に2回と渡航を繰り返し、中国の様々な文物を日本に持ち帰っている。その費用を賄う為にこの時期は生涯で最も盛んに篆刻し、人の求めに応じている。中国でも羅振玉と汪康年より推薦文を貰い受け各地で売印をしている。 明治36年(1903年)、京都の実家を弟の河井章石に譲り、東京下谷に転居し世帯を構えた。その後まもなく三井高堅(新町家9代)の庇護を受け、その邸内の簡素な家(九段富士見町)に移り住んだ。荃廬は中国文物の目利きとなっていたので高堅の蒐集のアドバイザーともなった。この頃、書家の巌谷一六から貫名菘翁の所蔵した法帖を譲り受けて、宝書龕の堂号を得ている。 大正3年(1914年)、呉昌碩が初代社長となった西泠印社設立時の発起人の一人となり、結社後は長尾雨山とともに社員となった。設立メンバーのひとりである王禔の自用印は荃廬が刻している。昌碩との交流は彼が没する昭和2年まで続いた。因みに昭和6年、荃廬61歳のとき書道人の団体の代表となって渡航したが、これが最期の渡航となった。 太平洋戦争末期、空襲が激しさを増しても居宅は皇居の近くだから爆撃されないと嘯き、戦禍を避けようとはしなかった。しかし、昭和20年(1945年)3月10日、ついに爆撃に遭い、所蔵する膨大な書画や蔵書などとともに帰らぬ人となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河井せん廬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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