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河井 彌八(かわい やはち、1877年10月24日-1960年7月21日)は、日本の官僚・政治家。侍従次長や第4代参議院議長を歴任する。静岡県出身。 == 来歴・人物 == 静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、1904年東京帝国大学卒業後、内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となり、1930年から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。 1938年1月7日に貴族院議員に勅撰され〔『官報』第3302号、昭和13年1月8日。〕同成会に所属、鉄道会議議員・大日本報徳社社長を兼ねる。また、サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし、「サツマイモ博士」という愛称が付けられた〔詳しくは前田寿紀 『戦中・戦後甘藷増産史研究』<淑徳大学総合福祉学部研究叢書22>学文社、2006年〕。 戦後、第1回参議院議員通常選挙に静岡県選挙区から立候補して、参議院議員に初当選する。当選後は緑風会に所属、3年後の第2回参議院議員通常選挙でも再選された(第1回選挙は全議席の選出が行われ、下位当選者の任期を3年と定めて次の選挙における半数改選議席としていた)。 1953年には参議院議長に就任、1956年の第4回参議院議員通常選挙で議長在任中だったが落選した。高齢だったこともあり政界引退を表明した。没時に従二位勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。 公刊日記に、侍従次長時代の『昭和初期の天皇と宮中』(岩波書店 全6巻)〔解説・校訂は高橋紘ほか、1993-94年。他に「日記」は、戦後期の『参議院議長河井弥八日記』が、前後編に分け中央公論(2013年7・8月号)で紹介されている(内藤一成解説)。〕がある。 1955年3月26日、河井は鳩山一郎とともにフリーメイソン第二階級に昇進した〔Freemasonry and Modern Japanese History By Tim Wangelin , Far East Lodge No.1 , 2015-9-11閲覧。〕〔赤間88ページによれば1955年5月25日に「昇進が行われた」とある。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河井彌八」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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