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源 融(みなもと の とおる、弘仁13年(822年) - 寛平7年8月25日(895年9月21日))は、嵯峨天皇の十二男。侍従、右衛門督、大納言などを歴任。極位極官は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。死後正一位を追贈されている。 == 肖像 == 嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。 六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。 872年(貞観14年)に左大臣にまで昇ったが、876年(貞観18年)下位である右大臣の藤原基経が陽成天皇の摂政に任じられたため、上表を出して自宅に引籠もった(『三代実録』及び『中右記』)。光孝天皇即位後の884年(元慶8年)、政務に復帰。 なお、陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。 また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。 現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源融」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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