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河原 操子(かわはら みさこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は女子教育者。 == 人物 == 筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる。長野県師範学校女子部を卒業した後、東京女子高等師範学校に入学(翌年中退)。下田歌子の推薦により、横浜の在日清国人教育機関「大同学校」の教師となった。 学校の名誉学長は亜細亜主義者としても知られる犬養毅であった。 1902年、上海の務本女学堂の教師になる。1903年、内蒙古で初めて開設された女学校・毓正女学堂の教師として招聘され、同年喀喇沁(カラチン)右翼旗へ赴任する。喀喇沁右翼旗のジャサク郡王グンサンノルブ(貢桑諾爾布)は1903年に日本を視察し、その際に下田歌子と面談して女子教育の重要性を認識し、喀喇沁に女学校を開設することを決意。下田は操子を推薦した。毓正女学堂の校長は王妃善坤であり、彼女は粛親王善耆の妹だった。操子の赴任には粛親王の顧問を務める川島浪速や陸軍の福島安正ら松本の同郷人の思惑もあり、日露戦争の勃発という風雲急を告げる事態に際し、喀喇沁に親日の地盤を築くということも目的の一つだった。 日露戦争の最中に特務任務で満洲を偵察した横川省三と沖偵介、脇光三は、途中喀喇沁に立ち寄り、その際は操子が彼らの世話をした。 操子は1907年まで毓正女学堂で教鞭をとり、後任を鳥居龍蔵夫人のきみ子に任せ、天津から神戸に帰国。その際女学堂の生徒3人を連れて行き、実践女学校に留学させている。 帰国後、横浜正金銀行ニュ―ヨーク副支店長の一宮鈴太郎と結婚し渡米。1945年3月に熱海市で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河原操子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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