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河原町のジュリー(かわらまちのジュリー、生年未詳 - 1984年(昭和59年)2月5日)は、1960年代から1980年代に主に京都府京都市四条河原町付近を徘徊していたホームレスの愛称〔「ア・ペン-過去語らず 京の奇人逝く」『京都新聞』1984年2月22日付夕刊、9面。〕〔飯倉義之 「奇人論序説-あのころは『河原町のジュリー』がいた」『世間話研究』第14号、世間話研究会、2004年、55頁。〕〔若島正「現代のことば-河原町のジュリー」『京都新聞』2007年2月5日付夕刊、2面。〕〔『ますます勝手に関西遺産 哲学心誘う 孤高の歩み 河原町のジュリー』- 朝日新聞 2011年10月19日 夕刊 2ページ 【河原町のジュリー】哲学心誘う 孤高の歩み - 朝日新聞 2011年10月27日〕。 == 生涯 == 四国出身〔。太平洋戦争に従軍し、復員後は実家の商売を継いだ〔。2年間の結婚生活もあるが〔、1958年(昭和33年)頃に出奔して音信不通となった〔。 その後、時期は不明だが河原町界隈に現れるようになり、いつしか地元出身の歌手・沢田研二のニックネームを冠され親しみを込めて「河原町のジュリー」と呼ばれるようになった〔〔〔〔。「京の奇人」として若者向け雑誌で取り上げられたり、しばらく姿を消すと「どこに行ったの」という投書が新聞に掲載されるなど、同時代の京都市民ならば知らない者のいない有名人であり〔、当時を知る文化人が少なからず彼について触れた文章を著している(「河原町のジュリー」を取り上げた作品と参考文献の節を参照)。「ジュリー」と呼ばれるようになった由来については、長髪であったため、奇抜な服装で目立ちたがり屋だったためなど多数の説があった〔。 1984年2月5日早朝、円山公園にある祇園祭の山鉾収蔵庫の前で凍死〔〔小林浜子 「河原町のジュリー達」『貧乏-現代風俗'90』リブロポート、1989年、254頁。 〕。66歳〔〔。遺体は親族によって引き取られた〔〔。この冬は厳冬で、当日の気温は午前7時で氷点下2.9度であった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河原町のジュリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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