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河島 喜好(かわしま きよし 1928年 - 2013年10月31日)は、自動車エンジニア、実業家。元本田技研工業代表取締役社長。日本楽器製造(現ヤマハ)社長、ダイエー副社長を歴任した河島博は実弟。 == 経歴 == 1947年、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科卒業後、本田技研工業の前身である本田技術研究所に入社。ホンダA型やホンダ初の4ストロークエンジンを搭載した二輪車であるドリームE型など最初期の市販モデルから、競技専用バイクの開発〔後年、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』に3代目社長である久米是志とともに出演した。〕に携わった。 1950年代からホンダのレーシングチームの監督を務め、1959年〜1967年には2輪世界グランプリレースでホンダワークスチームを率いた。1965年には一時的に4輪のホンダF1の監督も務めたことがある。 1971年に本田技術研究所の社長に就任。 1973年10月に本田宗一郎の後を受け、45歳の若さで本田技研工業代表取締役社長に就任。7人の候補がいた中で、宗一郎本人が河島を後継者として指名した。川島喜八郎、西田通弘らとのトロイカ体制で経営を担い、在任中は一時的に軽自動車市場から撤退する一方で、アメリカ・オハイオ州に現地生産工場を開設、欧州ではブリティッシュ・レイランド(後のローバー)と提携を結ぶなどした。またヤマハ発動機との激しい二輪車の販売シェア争い(HY戦争)においても陣頭指揮を執った。 1983年、後輩の久米是志に後を譲って社長を退任。1994年から1999年にかけて東京商工会議所副会頭を務めた〔河島喜好さん死去 ホンダ2代目社長、宗一郎氏の右腕 - 朝日新聞デジタル・2013年11月6日〕。 2013年10月31日逝去〔ホンダ元社長の河島喜好氏死去 時事通信 2013年11月6日閲覧〕。85歳歿。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河島喜好」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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