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河崎 祐長(かわさき すけなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。日向伊東氏の家臣。 == 経歴 == 伊東義祐に側室として嫁いだ娘が祐兵を生んだことで、一門の外祖父として日向伊東氏との関係を強めた。 祐長は伊東氏の飫肥知行後、目井城主に任ぜられていたが、天正5年(1577年)の伊東氏没落時は目井にいたため豊後国退去には同行せず、外ノ浦の弥太夫という人物を頼み、海路をとって豊後に向かった。 翌天正6年(1578年)、大友氏が島津氏との合戦で大敗すると(耳川の戦い)、伊東氏家中でも多くの家臣が戦死、自決した。結果的にこの敗戦の発端となった伊東義祐・祐兵親子は疫病神として大友氏から疎まれるようになり、その上大友義統が祐兵を殺して祐兵夫人・阿虎(伊東義益嫡女)を奪い取ろうとしているとの風聞が聞こえてきたため、祐長は一計を案じて義祐一家の脱出の手引きをした。 義祐・祐兵夫妻や従者20余人と共に豊予海峡を渡り、一行は伊予国の道後に河野氏を頼った。伊予に渡った主従の生活は窮乏し祐長は酒造りを営んでその生活を支えたという。 この頃、祐長は三峯という山伏を雇い、大峯修行の護摩を焼いて毎年供養をしていた。この三峯が播磨国で伊東一族(尾張伊東氏)の伊東長実に出会い、その斡旋で伊東祐兵ら主従は織田氏へ仕官することになる。 本能寺の変以降、伊東氏は羽柴秀吉に仕え、九州平定を経て、取立て大名として旧領の飫肥に再興を果たした。伊予での浪人時代から祐兵に従ってきた祐長は伊東家再興における第一の功臣とされ、以後は清武城主に任ぜられた。文禄・慶長の役の際は高齢のため日向にあって留守を預かり、代わって子権助が朝鮮に渡って軍役を務めた。 稲津重政が飫肥藩内で強い影響力を持つようになると、祐長は讒言によって一時日向を出奔したが、のちに帰参した。元和元年(1615年)に没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河崎祐長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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