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河津清三郎 : ウィキペディア日本語版
河津清三郎[かわづ せいざぶろう]

河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年8月31日 - 1983年2月20日)は、日本俳優。本名は中島 誠一(なかじま せいいち)。旧芸名に河津 精一河津 史郎
阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画で映画デビューし、マキノ・プロダクション移籍後は沢村國太郎に次ぐ若手時代劇スターとなった〔石割平『マキノ一家 日本映画興亡史』、ワイズ出版、200年、p.23〕。その後新興キネマに入社して男優の看板スターとして多くの作品に主演し、戦後は個性派の脇役として活躍した〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.172〕〔河津清三郎 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2015年10月17日閲覧〕。主な出演作品に『首の座』『次郎長三国志』シリーズ、『用心棒』など。妻は女優の高津慶子〔。
== 来歴 ==
1908年(明治41年)8月31日東京府東京市日本橋区蠣殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)に生まれる〔。浜町で待合を営んでいた父・嘉一と母・はまの養子である〔。
東華小学校を卒業後、正則英語学校に入学。俳優を志すが養父母に反対されて家出をし、地方巡業の一座に入る〔。その後、吉野二郎を知って連鎖劇に出演したのち新派村田正雄の門下となる〔。1925年(大正14年)6月、村田が亡くなったため剣劇の明石潮一座に加入〔。翌1926年(大正15年)5月に太秦阪東妻三郎プロダクションに入社、同年9月に阪妻プロは阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画として新発足し、その現代劇部に所属する〔。河津精一を芸名とし、1927年(昭和2年)に同社第3作の『青蛾』で映画デビュー。『雲雀』『勤王と血』などに出演するが、同年5月に阪妻プロがユニヴァーサル社と提携を解消し現代劇部は解散、そのため1928年(昭和3年)に発足間もない河合映画製作社に同社撮影所次長の沼井春信に招かれて入社する〔。このとき芸名も河津史郎に改名し、『黒髪草紙』『運命流転』などに出演する〔〔。
同年6月、川浪良太の仲介でマキノ・プロダクションに入社、河津清三郎と改名する〔。マキノ・プロは前月に片岡千恵蔵嵐寛寿郎ら筆頭スターが相次いで脱退し、その補強に大わらわであった〔。同社での第1回主演作は稲葉蛟児監督の『傴僂の兄貴』で、続いて『旗本五人男』などに出演して主演スターの地位を確保した〔。さらにマキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』『首の座』で大役に起用され、後者では殺人事件の犯人にされながらも無実で罪が晴れるのを待ち続け、ついには冷酷な官憲に処刑される不幸な庶民を演じてスターの座を確立、作品もキネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれた〔。
1930年(昭和5年)9月、帝国キネマ時代劇部へ転じ、『赤垣源蔵』『地雷火組』など多くの時代劇に主演〔。1931年(昭和6年)8月に帝キネが新興キネマと改組されてからも『三人の相馬大作』『元禄奴太平記』のほか、『青島から来た女』『十二階下の少年達』などの現代劇にも出演する。やがて新興キネマに岡田時彦高田稔小杉勇月形龍之介らのスター俳優が相次いで入社すると主演作が極端に減るが、1935年(昭和10年)に現代劇部が太秦から東京撮影所に移転すると筆頭俳優として参加し、高田稔に次ぐ新興キネマの現代劇スターとなる〔〔。1937年(昭和12年)に高田がP.C.L.へ移ってからは男優陣の一枚看板となり、看板女優の山路ふみ子とのコンビで溝口健二監督の『愛怨峡』『あゝ故郷』などに主演する〔。
1940年(昭和15年)、現代劇の革新を叫んで菅井一郎清水将夫田中春男らと新興キネマを退社して第一協団を結成、フリーランサーとして南旺映画の『南風交響楽』や松竹の『元禄忠臣蔵 後篇』などに出演する〔〔登川直樹・丸尾定『新興キネマ 戦前娯楽映画の王国』、山路ふみ子文化財団、1993年、p.46〕。1942年(昭和17年)、第一協団ごと東宝映画と契約を結び、『南海の花束』『翼の凱歌』などに重要な役どころで出演〔。この間に4ヶ月間軍務につく〔。
戦後は1948年(昭和23年)に菅井、藤原釜足らと第一協団を再結成し、フリーとして各社の作品に出演する〔〔宮城賢秀『戦後・戦争映画史』、墨東春秋社、1991年、p.61〕。佐分利信監督の『執行猶予』、吉村公三郎監督の『偽れる盛装』、黒澤明監督の『用心棒』など、戦後の出演作のほとんどは助演だが、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズでは主役格の大政役で全シリーズに登場、東映の『魚河岸の石松』では石松役で主演してその滑稽な演技で好評を受け、河津主演で計6本のシリーズが作られた。1954年(昭和29年)には製作再開した日活に男優陣の筆頭俳優として迎えられ〔、『志津野一平』シリーズに主演した。娯楽映画への出演も多く、岡本喜八監督の『暗黒街』シリーズ、東映任侠映画テレビ時代劇刑事ドラマでは黒幕的な巨悪や敵対するヤクザ組織の大親分など、大物悪役として存在感を見せた。
1983年(昭和58年)2月20日喉頭癌のため死去〔『演劇年鑑』、二松堂書店、1984年、p.197〕。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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