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河渕 務(かわぶち つとむ 1925年5月16日-2014年1月19日)は日本のアイスホッケー選手、指導者。日本女子アイスホッケーの父と呼ばれた。 == 経歴 == 1938年に旧制苫小牧中学校(現北海道苫小牧東高等学校)に入学してからアイスホッケーを始めた。立教大学に進学した後、1945年に中退し応召されて樺太に行った。復員した後、1947年に岩倉組に入社、アイスホッケー部の選手として、1954年の第7回国体、1957年の全日本アイスホッケー選手権で優勝、1959年に監督に就任した。 アイスホッケー日本代表の監督を務め、1960年の世界選手権Bプールで優勝、1964年のインスブルックオリンピックの監督も務めた〔。 日本アイスホッケー連盟副会長を務め、1998年の長野オリンピック前に大会組織委員会で、女子アイスホッケーを正式種目から外そうとする声が上がった際、強く主張して正式種目に残した。また女子代表が惨敗した後、強化費が削られた際にはポケットマネーで女子の強化費を捻出した〔河渕務さん死去 女子アイホ 私費で支援 競技普及に大きな貢献=北海道 読売新聞 2014年1月21日 東京朝刊32頁〕。 1990年から2010年まで北海道アイスホッケー連盟会長を務めた〔。2001年〔雪印アイスホッケー廃部 堤義明氏、クラブ化で道連盟と対応協議=北海道 読売新聞 2001年5月1日 東京朝刊36頁〕、雪印集団食中毒事件で廃部した雪印アイスホッケー部を後継した「札幌ポラリス」の運営会社、札幌アイスホッケークラブの社長に就任、2001年8月10日に札幌市内でチーム構成を発表、監督に中村等、村岡浩弥など19人の雪印乳業社員選手、契約選手として小友坊、アーロン・キャラー、村上裕幸の3人の合計22人、部長に苫小牧工業高校監督や日本アイスホッケー連盟のコーチ経験のある益子芳久を迎えた〔札幌アイスホッケークラブ、監督に元日本代表・中村等さん=北海道・訂正あり 読売新聞 2001年8月11日 東京朝刊28頁〕。 札幌ポラリスは、1シーズン経過した後、雪印乳業からの支援が打ち切られたことから、2002年6月には資金難となり、第37回日本アイスホッケーリーグへの参加断念を表明した〔札幌ポラリス休部へ チーム消滅の可能性も=北海道 読売新聞 2002年6月20日 東京朝刊34頁〕。 2004年、堤義明に続いて日本人としては2人目となる国際アイスホッケー連盟殿堂入りを果たした。 2014年1月19日、敗血症のため88歳で亡くなった〔女子アイスホッケーの父 河渕務さん死去 88歳=北海道 読売新聞 東京朝刊36頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河渕務」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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