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河相達夫[かわい たつお] 河相 達夫(かわい たつお、1889年7月26日 – 1966年10月31日〔『20世紀日本人名事典 あ-せ』761頁。〕)は、大正 – 昭和期の外交官、外務次官。終戦連絡中央事務局次長やオーストラリア公使等を務めた。旧姓・永井〔『日本人名大辞典』556頁。〕。広島県賀茂郡竹原村(現竹原市)出身〔。 == 経歴 == 医学者・永井潜の実弟で、河相保四郎の養子となる〔『新日本大観』16頁。〕。1915年、東京帝国大学政治学科卒業後、北海道炭礦汽船入社〔。翌年退職し1918年外交官試験に合格、外務省入省〔。バンクーバー総領事代理、青島在勤外務書記官、情報一課長、関東庁官房外事課長、米国大使館一等書記官、中国公使館一等書記官、広東、上海各総領事を歴任〔。1937年外務省情報部長となり、同年10月の米ルーズベルト大統領のシカゴ演説(隔離演説)に反駁談話を発表、「持てる国」中国に対し「持たざる国」日本が不公平是正の戦いを挑むことの正当性を主張し注目された〔。情報部長時代に外務省情報部の整理、統合を行う〔『歴史読本』2012年1月号、新人物往来社、198-203頁。〕。この他、児玉誉士夫を見出し中国に行かせた。児玉は河相を恩師であり父と子のような間柄であったと述べている〔児玉誉士夫『われかく戦えり』広済堂出版、1975年、321–327頁。〕。1939年、二世教育機関「敝之館」を設立〔外務省: 外交史料 Q&A 昭和戦前期 〕〔友情と友好を結んで 敝之館からラヂオプレスへ 〕。1941年1月オーストラリア公使となり〔『日本近現代人物履歴事典』166頁。〕1943年退官したが、1945年情報局総裁兼外務次官、終戦連絡中央事務局次長として終戦処理にたずさわる〔。 退官後ニュージーランド協会(日豪協会)会長を務めた。池田内閣時代に池田勇人に豪州には世界有数の鉄鉱石の山があるから、米国や英国に押さえられる前に50年分、80年分でも先に契約した方がいい、日本はその代償として、日本の土木技術を提供して、豪州の西部にダムを作り、水路を作って豪州の西部を東部と同じように沃野にしてやることだ、と進言したが、池田は、それは製鉄会社か貿易会社の仕事で自民党内閣とは関係ないと断わった、と池田嫌いの児玉誉士夫が自伝に書いている〔。 この他、日本に於ける盲導犬導入の歴史は、河相が盲目の息子・河相洌のために、知り合いの米国軍人から譲り受けた子犬・チャンピイに塩屋賢一が調教を行ったのを始まりとする〔河相洌『盲導犬・40年の旅―チャンピイ、ローザ、セリッサ』偕成社、2001年、17–28頁。〕〔『盲導犬チャンピイ―日本で最初にヒトの眼になった犬』新潮社、2003年、45–48頁。〕。この逸話は2002年2月12日にNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「ゆけチャンピイ 奇跡の犬~日本初の盲導犬・愛の物語~」というタイトルで取り上げられ〔プロジェクトX 挑戦者たち ゆけチャンピイ 奇跡の犬~日本初の盲導犬・愛の物語~ 〕、2008年9月13日には『ありがとう!チャンピイ』というタイトルでフジテレビでテレビドラマ化されている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河相達夫」の詳細全文を読む
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