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河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう。 北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。 「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」(かわごえよいくさ)である。本稿では河越夜戦について詳述する。 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。 == 背景 == 室町時代後期から、関東地方の覇権を巡り、古河公方と関東管領が対立し(享徳の乱)、さらに関東管領の上杉氏の内部において関東管領を世襲する本家筋の山内上杉家と相模、武蔵を地盤に力をつけた庶家の一つ扇谷上杉家とが対立(長享の乱)してきた。その間隙を縫い、扇谷上杉家領であった相模において北条早雲が台頭、扇谷方の大森氏、三浦氏を滅亡させるなど勢力を広げた。早雲の子の北条氏綱は、永正の乱で古河公方、関東管領双方が内紛で混乱する中、武蔵に進出し、江戸城、次いで天文6年に武蔵の枢要の地であり扇谷上杉家の当主上杉朝定の居城・河越城を落とし、扇谷上杉家を滅亡寸前まで追いつめていた。 しかし、氏綱が没し、跡を継いだ嫡男北条氏康は継承早々に一大危機を迎える。天文14年(1545年)7月下旬、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻する。氏康は駿河に出陣するものの武田氏までもが出陣してきたために状況は不利であり、更に在陣中に両上杉の大軍によって河越城が包囲されたという状況が知らされた。そのため10月下旬に武田晴信(信玄)の斡旋で義元に譲歩することで屈辱的ながらも和睦を成し遂げた(第二次河東一乱)。11月初旬には誓紙を交換した後に条件が履行され、氏康は挟撃されている絶体絶命の危機の中で西方を収め、関東方面へ転戦できる状況を得た。 関東方面では氏康の妹婿であった古河公方の足利晴氏は、関東管領(山内上杉家)に支援され、路線を変更して兵を動員、山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉家も和睦し、三氏は同盟を締結して武蔵を確保するため共通の敵・北条氏への総反撃を決定、一部の北条方の武士を除く関東の武士すべてに号令をかけ、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏それぞれが自ら自軍を率いて、北条氏の拠点・河越城の奪還を開始した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河越城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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