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ペトル河野通勢( - こうの みちせい〔「つうせい」という読みも知られているが、近年では「みちせい」が最も通用している。河野の絵画におけるサインも、一部例外を除きM.K.となっている。出典:『大正の鬼才 河野通勢 新発見作品を中心に 展図録』203頁(美術館連絡協議会、2008)〕、1895年6月10日 - 1950年3月31日)は、日本の画家。風景画、人物画(自画像含む)、銅版画、小説等の挿絵、山水画〔河野通勢 山水図(掛軸) 〕、南画など、その膨大な量の作品が占めるジャンルは多岐に亘っているのみならず、画風もまた題材・時期によって様々な展開をみせている。 父の河野次郎(下野国足利藩士、旧姓杉本、聖名:アレクセイ)は長野師範学校の図画教師も務め、洋画の普及・教育に尽力した画家であり、熱心な正教徒であった。通勢も9歳の時に正教の洗礼を受けた。「ペトル」はこの時受けた聖名。このことからキリスト教、正教に題材をとった作品も数多い。 白樺派の武者小路実篤との交流、岸田劉生が率いていた草土社への参加といった、同時代人との関係も注目される。岸田の遺品の中にも通勢の作品があった。 == 生涯 == === 幼少~青年時代 === 22歳まで長野に暮らした(出生地については長野県上水内郡長野町字南県町(長野市南長野)という説と、父の本籍地群馬県佐波郡伊勢崎町(伊勢崎市)〔田島清 編『信州人物誌』1969年〕という説がある)。 小学生時代に学校から許可を得て開催された展覧会を、3学年年長の草川信と指揮するなど、幼少の頃から美術に才能を発揮する一方で、友人達と野球をし、裾花川で水泳をして遊び、中学時代には野球部に所属して5年生時には主将も務める面もあった〔『大正の鬼才 河野通勢 新発見作品を中心に 展図録』188頁(美術館連絡協議会、2008)〕。 大正半ばに東京に移り住むまでの作品の殆どは、裾花川とその周辺を題材にした風景画である。1911年頃からみられるこの題材に関連する作品の中でも、1914年から1916年にかけての3年間の作品は、それまでの写生的な様相から一変し、執拗でうねるような筆触が独特なもの〔『大正の鬼才 河野通勢 新発見作品を中心に 展図録』21頁(美術館連絡協議会、2008)〕となっている。 1913年、中学4年生時に上高地に友人と出掛けた時に、高村光太郎と同宿となって出会った。高村光太郎からは批評を受け、のちに上京する際には訪ねる仲となった。1914年には関根正二の訪問を受け、関根には大きな影響があったとされる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「河野通勢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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