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法霖[ほうりん] 法霖(ほうりん、元禄6年(1693年)- 寛保元年10月17日(1741年11月24日))は、江戸時代中期の浄土真宗の学僧。父は佐竹忠蔵。諱は慧琳。号は日渓・松華子。諡は演暢院。紀伊国の出身。西本願寺の4世能化(のうけ=学頭)。 1719年(享保4年)17歳で出家し、19歳で選択本願念仏集を講義した。1718年(享保3年)26歳の時本山西本願寺学林に入門し、若霖に師事して副講に任じられ、近江国正崇寺を継いだ。1731年(享保16年)華厳宗の鳳潭との論争に対しては、「浄土折衝編」を著して鳳潭に反駁し、宗風を高揚している。翌1732年(享保17年)の師の没後、1736年(元文元年)に学林4世能化となり、学林を整備して宗学の興隆に尽力した。1741年(寛保元年)死去。(自殺説がある(後述))
== 逸話 ==
* 死因については、時の西本願寺宗主・湛如が病に臥した際、裏方やその実家である閑院宮家が病気平癒のための祈祷をさせた為に、法霖が『宗主自らが祈祷で病気が平癒したとなれば神祇不拝を旨とする宗義に大変な混乱が生じる』と諭し、やがて湛如が自ら命を絶つと、法霖もまた割腹自殺を行なったという話が伝わっている。 * 学林の講義においては、書物などを見ずに経典・論釈を暗誦することが常であり、経文をど忘れしても頭のツボを押さえると忽ち思い出したという。そのため、西本願寺に所蔵されている法霖の肖像画も右手の指で頭を押さえる法霖が描かれている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「法霖」の詳細全文を読む
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