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波々伯部 宗量(ほうかべ むねかず、生没年不詳)は、戦国時代前期(室町時代後期)の武将。 名字の読みはははかべ、とも。通称は五郎。細川氏の家臣で丹波の国人。 明応8年(1499年)7月、細川政元による明応の政変でその座を追われた前征夷大将軍の足利義稙が比叡山延暦寺と結託する動きを見せた。そのため、それに怒った政元は、赤沢朝経と共に宗量にも比叡山を焼き討ちするように命じた。 同月11日、赤沢軍と波々伯部軍は一斉に比叡山に攻め上り、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍を命令通りに焼き討ちし、全山を焼き滅ぼした。 == 参考文献 == * 棚橋利光 『大阪の戦乱と城』 松籟社 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「波々伯部宗量」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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