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洞院公賢[とういん きんかた] 洞院 公賢(とういん きんかた、正応4年8月(1291年) - 延文5年/正平15年4月6日(1360年4月21日))は、南北朝時代の公家。正式な名乗りは藤原公賢。父は左大臣洞院実泰。母は実泰の叔父にあたる小倉公雄の娘・季子。洞院家は藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。 == 生涯 == 正応4年(1291年)生まれる。父実泰の蔭位により同年従五位下に叙され、数え7歳にして早くも正五位下侍従となる。文保2年(1318年)後醍醐天皇の即位の際には皇太子邦良親王の春宮大夫を務める。また、後醍醐天皇の側室阿野廉子の養父となっている。元徳2年(1330年)内大臣に就任するが、翌年辞職。後伏見院の院執事として鎌倉幕府の滅亡を迎える。建武の新政が始まると内大臣に還任。翌年には右大臣に昇る。雑訴決断所頭人や伝奏なども兼ね、建武政権でも重きをなし、建武2年(1335年)には義良親王(のちの後村上天皇)の元服に際し、加冠役を務めたほどであったが、南北朝分立後は北朝に属し、北朝側の重鎮として光厳院の院執事となる。以後、たびたび辞意を表するが受け入れられず、左大臣・太政大臣を歴任。 公賢は朝廷で高位高官の地位にあって朝政を主導しただけでなく、有職故実にも明るく学識経験も豊富だったため、天皇・院・公家らから相談を受けることも多く、その日記『園太暦』はこの時代の朝廷の様々な人物の動きを知る上での貴重な基本史料となっている。観応2年(1351年)のいわゆる「正平の一統」においては北朝側の代表として交渉をまとめた。だが、南朝側による崇光天皇らの吉野への連行事件、続く文和2年(1353年)の後光厳天皇の美濃国退避に同行しなかったことから天皇の疑心を買い、政治の中枢から外れていくことになる。「聖朝之半隠、当世之外物」(『魚魯愚鈔』所収「揚名介事」奥書)と記したのもこの時期のことである〔小川剛生『二条良基研究』(笠間書院、2005年)P46〕。また、この時期に南朝に下った異母弟の実守を後継者から外して、実子の実夏を後継者としたものの、実夏と不仲になったために実守を帰参させて再び後継者にしようと図り、公賢没後の家門争いの原因となった〔松永和浩『室町期公武関係と南北朝内乱』(吉川弘文館、2013年)P242-244〕。延文4年(1359年)にようやく辞職が許されて出家、空元と号した。翌年薨御。 他の著書に『皇代暦』・『魚魯愚鈔』など。子に洞院実夏・実世。孫に『尊卑分脈』を編んだ洞院公定(実夏の子)がいる。また、鷹司師平・一条経通の2代の関白を娘婿、左大臣近衛道嗣を孫婿(正室は実夏の娘、公賢没後に関白となる)として彼らの相談役としても活躍した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洞院公賢」の詳細全文を読む
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