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洞院実泰 : ウィキペディア日本語版
洞院実泰[とういん さねやす]

洞院 実泰(とういん さねやす)は鎌倉時代後期の公卿従一位左大臣洞院左大臣または後山本左府と号す。父は太政大臣洞院公守。母は従三位平親継の娘。子に公賢公敏実守らがいる。
== 経歴 ==
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
文永7年(1270年)閏9月23日、叙爵。文永9年(1272年)1月5日、従五位上に昇叙。文永11年(1274年)1月5日、正五位下に昇叙。文永12年(1275年)1月18日、侍従に任ぜられる。弘安元年(1278年)4月25日、従四位下に昇叙。弘安2年(1279年)1月24日、遠江権介を兼ねる。弘安3年())3月12日、左少将に任ぜられる。弘安5年(1282年)1月14日、禁色を許される。弘安6年(1283年)1月5日、正四位下に昇叙。同年3月23日、備後介を兼ねる。また同年9月26日には左中将に転任。
弘安7年(1284年)1月13日、従三位に叙される。左中将は元の如し。弘安9年(1286年)2月25日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し、肥後権守を兼ねる。弘安11年(1288年)1月5日、正三位に昇叙。同年7月11日、権中納言に昇進。また同年12月20日、皇后宮権大夫を兼ねる。正応2年(1289年)1月14日、従二位に昇叙。正応3年(1290年)7月27日、皇后宮権大夫を大夫に転じる。正応4年(1291年)1月6日、正二位に昇叙。同年7月29日、中納言に転正。同年8月12日、皇后が女院(遊義門院)となったために皇后宮大夫を止める。正応5年(1292年)5月15日、権大納言に昇進。永仁6年(1298年)8月10日、春宮権大夫を兼ね、同月25日には大嘗会検校に補される。正安3年(1301年)1月21日、春宮が践祚したため春宮権大夫を止める。乾元元年(1302年)12月30日、按察使を兼ねる。
延慶2年(1309年)10月15日、大納言に転正し、同月24日には右大将を兼ねる。按察使は元の如し。延慶3年(1310年)3月9日、按察使を辞した。同年4月28日には左大将に転任。正和4年(1315年)1月2日、母の喪に服し同年2月29日には復任した。また同年3月13日には内大臣に任ぜられ、左大将は元の如し。同年7月23日、左大将を辞した。正和5年(1316年)10月22日、右大臣に転任。文保元年(1317年)6月2日、上表なく右大臣を止め、従一位に叙せられる。また、同年7月10日には父公守が薨去した。
文保2年(1318年)8月24日、左大臣に任ぜられる。元応2年(1320年)3月22日、輦車を許される。元亨2年(1322年)3月11日、牛車を許される。8月11日、二度目の上表により左大臣を辞した。元亨3年(1323年)6月15日、左大臣に還任し、牛車の宣旨は元の如し。元亨4年(1324年)、左大臣を辞した。嘉暦2年(1327年)8月15日、薨去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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