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洞院家 : ウィキペディア日本語版
洞院家[とういんけ]

洞院家(とういんけ)は、清華家の家格を有する公家藤原北家閑院流西園寺家庶流西園寺公経の男実雄を家祖とし、鎌倉時代から室町時代にかけて存続した。分家に小倉家正親町家がある。



== 概要 ==
家祖実雄後嵯峨天皇のもとで左大臣に到達、後宇多伏見天皇外祖父として権勢を誇る。大覚寺統持明院統双方の国母を出したことから、歴代当主が大臣に任じられるなど朝廷で重んじられ、また有職故実に明るい博識な家柄として多くの典籍を蓄積していた。中でも4代公賢は公事に練達し、『皇代暦』『拾芥抄』『魚魯愚抄』など数々の故実書を著した他、南北朝時代の重要史料とされる日記園太暦』の記主であり、南北両朝より信任を得て太政大臣に至っている。公賢の没後、その家門の継承について、南朝方の実守北朝方の実夏との間で争われたが、室町幕府からの口入を得た6代公定のもとに統一された。なお、公定は『尊卑分脈』の編者、8代満季は『本朝皇胤紹運録』の編者として知られる。9代実熙は公賢らの著述を書写・増補するとともに自らも『名目鈔』を編み、同家の蔵書が公事の手引として幅広い関心を得た他、後花園天皇灌頂を伝授したという。しかし、10代公数は「放埒」の人で、伝来の家記・文書類を売却して文明8年(1476年出家し、洞院家は断絶した。ただし、9代実熙の当時には既に経済的に困窮して「番々の輩の如く成り下がる事はできない」と嘆かせる状況であった事から、公数の出家は清華家としての家格を維持できる見通しを失った事で没落よりも自ら断絶させる選択をしたとする指摘もある〔末柄豊「洞院公数の出家」田島公 編『禁裏・公家文庫研究第一輯』(思文閣出版、2003年)〕〔井原今朝男「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年) 〕。累代の文書を失うことは家の存続を左右することでもあり、数年後、本家筋の西園寺実遠が子の公連をして洞院家を再興させたが、公連もまた出家して有名無実に終わった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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