翻訳と辞書 |
洞院満季[とういん みつすえ]
洞院 満季 (とういん みつすえ)は、室町時代前期の公卿。権大納言洞院実信の子で、母は法眼兼快の女だが、権大納言洞院公定の猶子となる。後小松天皇の寵臣であり、その勅命を奉じて『本朝皇胤紹運録』を撰進した。 == 経歴 == 将軍足利義満の偏諱を受ける。応永16年(1409年)12月左中将のまま従三位に昇叙され、公卿に列した。同18年(1411年)1月正三位、閏10月参議、同21年(1414年)11月権中納言従二位に叙任。同22年(1415年)大嘗祭の節会に遅参し、将軍足利義持から譴責を受けている。同26年(1419年)1月正二位、12月権大納言に叙任され、同月の任大臣節会では外弁に奉仕。同28年(1421年)今出川公行の薨去で今出川家が断絶するに及び、後小松上皇から同家領の一つ左馬寮領の半分が還付される。同30年(1423年)8月右近衛大将に任じられたが、これは上皇の肩入れで将軍家の推す久我清通を退けたためであった〔この人事について、『看聞日記』の記主貞成親王は「仙洞ハ洞院御贔屓」と評している(同年8月24日条)。〕。同31年(1424年)4月内大臣に昇任。同33年(1426年)5月上皇の勅命で先行の皇室系図を勘案した「帝王系図」(『本朝皇胤紹運録』)を撰進して程なく内大臣を辞し、8月従一位を宣下された〔『本朝皇胤紹運録』撰進の功績による叙位と考えられるが、一説に前年(1425年)4月とする。〕。 永享3年(1431年)3月上皇の落飾に殉じて出家。上皇の落飾に立腹した将軍足利義教が、満季らの出家伺いに対して、「今日中に出家しなければ罪科に処する」と脅したため、早々の出家を余儀なくされたという〔『看聞日記』同年3月24日条〕。法名は聖覚、後に浄導へ改める。義教から睨まれた満季は娘をその側室(西御方)に送り、退勢の挽回を期するも、同5年(1433年)孫娘が誕生。同6年(1434年)2月西御方が放逐されたことで、左馬寮領を没収された。同11年(1439年)には存命か。 上皇の箏師範となったことで知られるとおり雅楽に堪能であったが、自身の器量よりも上皇の情に訴えて数寄心を向けさせることに巧みで、上皇の庇護を受けて雅楽界の中心を占めた。和歌は『新続古今和歌集』に2首入集。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「洞院満季」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|