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津田信勝 : ウィキペディア日本語版
津田盛月[つだ もりつき]

津田 盛月(つだ もりつき(せいげつ))は、戦国時代から安土桃山時代武将織田氏の一族である。信勝または信重と伝わる。通称は左馬允、後には隼人正。
『織田系図』では、父は織田刑部大輔で中川重政の弟、織田信長の叔父・織田信次の孫とされるが、年代的に疑問という見解もある。
== 生涯 ==
早くから信長に仕え、信長の尾張統一に協力した。天文21年(1552年)、信長と織田信友が争った萱津の戦いでは、坂井五郎を討ったという〔。弘治2年(1556年)の信長と織田信行(信勝)の争った稲生の戦いでは、柴田勝家配下の鎌田勘之丞を討ったという〔『信長公記』〕。それらの功績により黒母衣衆の一員となった〔『高木文書』〕。永禄12年(1569年)からは信長の命令で足利義昭の守備を任されている。
ところが、兄の重政と長光寺城主・柴田勝家との領地が入り組んでいたために抗争が起き、盛月は勝家の代官を斬り、兄と共に改易となった上で追放された。
後に羽柴秀吉に召されて姫路に至り、「外峯四郎左衛門」と名を改めてこれに仕えた。以後、秀吉の下で備中攻めなどで戦功を挙げた。秀吉のもとにいるのが信長に露見し、切腹させられるところであったが、本能寺の変によって命拾いしたという〔『武家事紀』〕。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加し、その功績により従五位下、隼人正に叙任され、津田姓に改める。この戦いで弟の木下雅楽助が討ち死にしている。戦後、家康と秀吉妹・朝日姫との縁談をまとめたのは、蜂須賀正勝と盛月の功績によるという〔『川角太閤記』〕。
天正15年(1587年)の九州征伐にも参加し、秀吉から所領を与えられて3万5千石の大名となった。
天正18年(1590年)10月、後北条氏北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた際、富田一白と共に関係者の引き渡し・処罰を求める上使として北条氏に派遣された。この件を北条氏が拒否し、一旦は融和しつつあった秀吉と北条氏の関係が完全に決裂し、北条氏追討(小田原攻め)へと繋がった。
文禄2年(1593年)に伏見にて死去した。享年58〔『兼見卿記』〕。 跡を長男の信任が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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