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津田信吾
津田 信吾(つだ しんご、1881年3月29日 - 1948年4月18日)は、大正・昭和期の実業家。鐘紡の第2代社長を務めた。 == 経歴 == 愛知県額田郡岡崎能見町(現・岡崎市)に岡崎藩士・西山芳六の四男として生まれる〔 〕。7歳の時に福井県庁の土木課長を務めていた津田於菟の養子となる。福井県立福井小学師範学校から福井県尋常中学校に進む〔 〕。2年浪人したのち慶應義塾大学予科に入学〔 〕。同大学卒業後、鐘淵紡績に工員として入社。1911年(明治44年)、西大寺工場長に就任。ついで淀川工場長となる。1930年(昭和5年)に副社長となり、同年4月から6月にかけて八つの工場で発生した労働争議(いわゆる鐘紡争議)の解決にあたる。その直後、武藤山治から後事を託されて社長に就任〔 〕。 戦時中は海外に積極的に進出。朝鮮半島を皮切りに、満州、中国大陸、フィリピンなどに進出した。非繊維事業化をすすめ、合成繊維(ビニロン)や絹石鹸、合成ゴムの開発、製薬事業等の化学工業、ディーゼル事業、兵器事業、飛行機製造事業等の重工業にまで事業を拡大した。1944年(昭和19年)には社名も鐘淵工業と変更した〔武藤記念講座|國民會館 武藤記念ホール 〕。 1945年(昭和20年)12月2日、連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯として逮捕される。1948年(昭和23年)4月18日、脳出血のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)18頁〕。。1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される〔 〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津田信吾」の詳細全文を読む
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