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ヒマラヤ製菓株式会社(ヒマラヤせいか)は、かつて存在した日本の洋菓子製造・販売会社。 名古屋市一円および愛知県・三重県にチェーン店舗を出店して、ケーキをはじめとする洋菓子の販売や喫茶店営業などを展開した。 「ヒマラヤのケーキ」として、また「本丸シュークリーム」・生チョコレート「美術館の石畳」・チョコレート菓子「コーチンエッグ」・「ナゴヤプリン」・赤味噌を用いた「みそサブレ」などの特色ある商品でも知られた。 ヒマラヤ美術館の設立・運営母体でもあった。 == 経過 == 津田 弘(1925年(大正14年)2月4日 - 1989年(平成元年)7月10日)は、名古屋市生まれ。津田一族は元来、稲葉寺城主津田豊後守を祖とするが、豊後守は織田信長の伯父にあたり、津田家家紋も織田家と同じ織田瓜である。弘は植物分類学者を志して、1944年(昭和19年)東北帝国大学理学部生物学科に入学、木村有香に学ぶ。1945年(昭和20年)空襲で焼け出されたことから、帰郷して名古屋大学を卒業(東北大学卒業、とする資料もある)。その後、1950年(昭和25年)に製菓業を創業(1951年創業、とする資料もある)。1952年(昭和27年)、菓子分野で「ヒマラヤ」を商標登録(登録番号・第411564号)。1956年(昭和31年)、法人として「ヒマラヤ製菓株式会社」を設立した。 創業者・津田弘は、社業のかたわら絵画の収集も行なった。そのコレクションをもとに、1977年(昭和52年)3月「ヒマラヤ美術館」(財団法人ヒマラヤ美術館)を開館。当時、文化不毛の地とも評されていた名古屋の地に、何とか文化還元を通じて貢献したいとの一念であった。 津田弘はまた、1984年(昭和59年)6月、植物分類学の研究施設の建設に役立てて欲しいとして、東北大学に3億円を寄付。これをもとに東北大学は、理学部附属植物園において植物標本の展示施設として、1987年(昭和62年)4月24日に「植物園記念館(通称・津田記念館)」を開設した。津田記念館の開館日は、津田が尊敬する牧野富太郎の誕生日でもあった。その後、津田は1989年(平成元年)名古屋にて没する。 ヒマラヤ美術館の所蔵作品について、その後事業を引き継いだ創業者の長男津田一(はじめ)が、その一部を本業の資金調達のため担保としていながら融資を返済できず、作品の一部が売却されていたことが、2002年12月明らかになった。この件によって、経営不振が表面化。当時財団の理事長も務めていた一に代わり、津田弘の次男である津田和典が理事長となり財団法人を急きょ継承。しかしながら、作品の回収、返還が困難を極め、これ以上の継続は厳しいと判断。財団法人を2002年12月末に解散し、美術館を閉館。翌年には本店も閉店。2003年8月期決算では、9億円の売上に対し約4千万円の経常赤字。 2004年1月29日、グループ3社とともに負債総額4社合計約8億円を抱え、名古屋地方裁判所に自己破産を申請。全11店舗が休業に陥るものの、地元食肉販売大手の株式会社ムッターハム( www.mutterham.com/ )が直ちに買収したことで、3月1日から中日ビル店・テルミナ店など、一部店舗が順次営業を再開。工場も、「株式会社ムッターハム ヒマラヤ工場」として稼動を再開した。しかし、ムッターハムとその親会社である株式会社フジチク(フジチクグループ)は、国のBSE(牛海綿状脳症)対策での国産牛肉買い上げ事業を悪用した牛肉偽装事件で、2004年11月8日に摘発された。このあおりを受けて、2004年11月22日に株式会社ムッターハムは、負債45億円で名古屋地裁に自己破産を申請。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヒマラヤ製菓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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