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津田 応助(つだ おうすけ、1890年(明治23年)9月22日 - 1967年(昭和42年)1月12日)は、愛知県の郷土史家、教育者、皇漢学者。應助とも表記される。号は象山(しょうざん)〔南宋の儒学者陸象山から。入谷 (1988)p.11〕。愛知県東春日井郡小牧町大字小牧字山東(現在の小牧市小牧5丁目)に生まれる。愛知県を代表する在野の郷土史家であり〔羽賀 (2009)p.77〕、また私塾象山義塾の設立者としても知られる。 == 生涯 == === 出生から世に出るまで === 津田家の家系は、織田信長の家臣である津田某が小牧に帰農、その女と元は美濃蘇原(現在の各務原市蘇原)在住の織田信広が婚姻し四人の子を生した。その三男信光に端を発すと言う〔津田 (1949)p.99〕。応助の父は金蔵、母はみきもしくはうらとも言い旧姓は石野。みきは名古屋巾下五条町の出。金蔵は木挽をしていたがその後独立し材木商を営むようになり、1891年(明治24年)に起きた濃尾地震の復興特需で財を成した〔津田、舟橋 (1980)p.1〕。1890年(明治23年)に生まれた応助は幼いころ何不自由なく育てられた。しかし金蔵は応助4歳、金蔵37歳の頃中風に罹り、段々と症状が悪化していってその影響で家業は衰退していった。これにより応助は小牧町外十一ヶ村組合立高等小学校を卒業後に、旧制中等教育学校へ進学することができなかった。15歳から16歳の頃には、隣村の常普請まで灸の名人の治療を受けるために、応助は不随の金蔵を背負って行くこともあった。このような苦境の気晴らしのために自転車を乗り回し、後に第二代小牧市長となる神戸真と一緒に自転車レースに出場することもあった〔津田、舟橋 (1980)p.3, 4.〕。また、写真の撮影技術や現像、焼き付けを小牧で初めて写真館、「舟橋写真機店」を開いた舟橋桝兵衛〔明治後期のこと。「写真館一号は桝兵衛さん」『小牧の産業史話』小牧市教育委員会<小牧叢書>14、1994年 p.63〕より学んだが、これは長じてからの地域の風物の記録にも繋がり、自ら著したり編纂を担当したりした郷土史本掲載の写真撮影を担当することにもなった。 応助が17歳18歳の頃、父の病状はいよいよ悪化した。また、家業では貸倒が多発し、これへの対応に苦労する父の様子を見て商いに見切りをつけ、応助は家業を継ぐことを辞めた。応助は幼少のころから講談本など本に親しんでいたが、この頃文学結社硯友社の全盛期で、講談本を捨ててその機関誌『我楽多文庫』にのめり込んだ。応助は特に硯友社同人尾崎紅葉門下であった泉鏡花に心酔していた。そうして物した小説を学生雑誌へ投稿することもあった。さらに文学修行をしようと鏡花へ上京の意志を伝える書簡を送ったところ鏡花から面談したいとの返信が来た。応助は3年の間に上京できればとこれに答えた〔津田、舟橋 (1980)p.4〕。 しかしその後、自らに文才が足らないと思い直し、また困窮した現況から上京は不可能と文学の道と上京を諦め、買い集めた稗史や小説類一切を小牧の書店「紙本書店」へ売却した。そうして得た金で修養の為に漢書を贖って、孔孟思想など学問追究の道へ進むことにした。応助の学歴は1904年(明治37年)の小牧町外十一ヶ村組合立高等小學校卒までで、その後の勉学はほぼ独学のみである〔津田 (1965)p.39。津田 (1949)p.99 には『学業は小学卒業後高等小学校二年習得のみ』とある。〕。通信教材の『早稲田中学講義録』を基礎とし、また漢文と日本史を学ぼうと頼山陽『日本外史』から入り、次いで巌垣松苗『国史略』へ進んで、そして中国の四書五経や朱子、宋学を勉学し出した。それ以外にも、平田篤胤や荻生徂徠の学問、漢詩は大窪詩仏、仏教は一休宗純や白隠慧鶴の禅、和歌は小沢蘆庵、戸田茂睡、香川景樹、俳句は松尾芭蕉、与謝蕪村にそれぞれ私淑した〔津田 (1949)p.100〕。この数年間、応助は全く屋外へ出ず机に向かっていたため、畳が腐ってしまうほどだったと言う〔津田、舟橋 (1980)p.4、津田 (1949)p.100〕。父金蔵は54歳、応助20歳もしくは21歳の頃に死去し、家業は廃業となった。一時は多数の奉公人も居住した広大な住家を売り払って、隣の敷地に平屋を新築しそこに移り住んだ。その後は母みきが常に弟子を5人6人とるほどの得意の裁縫で応助の勉学を支えることになった。21歳、兵役で輜重隊に入ったが、休日の日曜日も全く外出せず論語の研鑽に打込んだ。 退役後、本場で学問しようと中国に渡ることにした。まずその足がかりとして朝鮮に着き、本山新報社の葭浜忠三郎宅に書生として入ることができた。しかし、掃除炊事洗濯風呂焚き庭の手入れ主人の送迎果ては風呂場での背中流しまでさせられる等、無報酬で家事全般を任される事態となり、全く学問の暇がなかった。これに4か月5か月耐えたところ、主人に信用され、娘の婿に宛がわれそうになるまでになった。その折、母みきが胃病に罹った旨の電報が届き、書生を辞め帰郷した。母の病は応助の厚い看病で恢復した〔津田、舟橋 (1980)p.5, 6.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津田応助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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