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津田景康 : ウィキペディア日本語版
津田景康[つだ かげやす]

津田 景康(つだ かげやす)は、江戸時代前期の仙台藩重臣・津田氏第3代当主。通称・津田玄蕃伊達騒動の主要人物の一人として知られる。
== 生涯 ==
正保2年(1645年)2月、仙台藩奉行・津田頼康の三男として生まれる。幼名は亀之助。兄二人が夭逝していたため世継となる。
承応4年(1655年)3月15日、元服して景康と名乗る。この諱は津田氏の初代である祖父・景康と同名なので、区別のために初代は豊前景康、3代目は玄蕃景康と表記される。明暦3年(1657年)、父・頼康の死去にともない家督を相続して佐沼8,000石を領し、寛文5年(1665年)11月には岩出山伊達氏当主伊達宗敏の娘・嶺松を娶り、奉行職に就く。当時仙台藩は万治3年(1660年)の伊達綱宗隠居に端を発した伊達騒動の渦中にあり、景康は岳父・宗敏らと共に伊達宗勝派の中心人物と目されていた。
そのため、寛文11年(1671年)3月27日に大老酒井忠清邸にて刃傷沙汰(寛文事件)が発生すると、4月15日、義兄・原田宗輔に連座して仙台城下の屋敷にて逼塞を命じられた。延宝2年(1674年)8月8日、ようやく佐沼への帰還が許されたものの逼塞処分は解除されず、景康は知行半分を没収された上で隠居を命じられたため、弟・春康が代わって佐沼4,000石の領主となった。貞享元年(1684年)3月、剃髪して如水と号した。
享保2年(1717年)5月21日死去。享年73。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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