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津田秀則 : ウィキペディア日本語版
織田秀則[おだ ひでのり]

織田 秀則(おだ ひでのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将美濃岐阜城主・織田信忠の次男。織田秀信は異母兄。諱は秀利とも。洗礼名はパウロ。
== 生涯 ==
慶長元年(1596年)頃、大坂城下で暮らしており、キリスト教に入信し、パウロという洗礼名を得る。なお、兄秀信も同時にキリスト教に入信する。ルイス・フロイスは秀則を「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評している〔『キリシタンになった大名』(結城了悟)〕。慶長3年(1598年)京都妙心寺に見性院を創建する。見性院はのち美濃の石河氏により桂春院として整えられ、現在も存続している。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際しては、兄と共に西軍に属し、美濃岐阜城に篭城する。合戦では、一族とみられる織田兵部津田藤右衛門らとともに大いに奮戦したことが『江源武鑑』巻十八に伝わる。戦後、兄秀信は改易となり、秀則は豊臣家を頼り、大坂城下に移り住む。その後、豊臣家の滅亡にともなって、京都に移り住む。晩年は剃髪し、宗爾と称した。津田信益と改名したとも伝わるが、同名の別人の可能性もあり詳細は不明である。
寛永2年(1625年10月27日、京都で死去、45歳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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