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津田秀政 : ウィキペディア日本語版
津田秀政[つだ ひでまさ]
津田 秀政(つだ ひでまさ、天文15年(1546年) - 寛永12年1月29日1635年3月18日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将江戸幕府旗本寄合津田秀重の子。幼名は愛増。通称は小平次。正秀とも。は興庵。妻は滝川一益の養女〔『寛政重修諸家譜』〕。
== 生涯 ==
;出自と関東入国
織田氏庶流の津田氏の生まれであり、父の秀重とともに織田信長に仕え、岳父の滝川一益の与力として旗下に加わる。天正2年(1574年3月、信長の嫡男・信忠の命より、祖父・織田秀敏の跡を継いだ。
天正10年(1582年)2月の甲州征伐にも従軍し、同年3月23日の一益の上野国拝領に伴い松井田城を任され、後閑氏後閑城を攻め落としている。しかし、同年6月18日、19日の神流川の戦いに一益が敗れるとこれに合流し、伊勢及び尾張に帰還した〔『上州治乱記』〕。
;三度の仕官
天正11年(1583年)、一益が賤ヶ岳の戦いにより没落すると、浪人した〔。その後、信長の次男・信雄に仕え、伊勢三重郡高角郷に800貫文を知行した〔『分限帳』〕。その後、信雄が没落すると豊臣秀吉馬廻として仕えた。文禄元年(1592)7月、肥前名護屋城の本丸番衆に名を連ねている〔『太閤記』〕。
慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を与えられて計4,010石余の大身旗本となった〔。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。
;妙心寺と隠棲
慶長11年(1606年)、嗣養子・津田正重が死去すると、滝川一益がその子・九天宗瑞を開祖として起こした「暘谷庵」(京都妙心寺)を再興し「暘谷院」として、津田家の菩提寺とした。慶長19年(1614年大坂の陣に従軍している〔。元和2年(1616年)に剃髪、京都に隱棲し興庵と号した。寛永12年(1635年)に死去。享年90〔。法名は長興院殿光岩道景大居士。
この時、前述の暘谷院は、津田秀政の号名にちなんで院号を「長興院」と改めている。長興院は、後に九天宗瑞と慈徳院が織田信忠の菩提所として開創した「大雲院」を併合した。〔『妙心寺史』〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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