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津軽貞栄[つがる さだえ]
津軽 貞栄(つがる さだえ)は、江戸時代中期から後期の弘前藩の武士。 == 生涯 == 津軽玄栄の三男として生まれ、一族の津軽大弐の養子となった。宝暦5年(1755年)に家督および知行800石を継いだ。安永5年(1776年)12月には書院番頭及び用人兼帯となった。天明3年(1783年)5月江戸詰めから帰国すると、飢饉の実情を見て、江戸の津軽信寧に報告した。それまでは、江戸詰めの用人大谷津四郎が権勢を奮い、国許からの報告を妨げ、対策が取られていなかった。天明2年(1782年)2月、藩主津軽信明の命により大坂に上り、飢饉救済のために資金調達を行った。8月に信明が津軽に入ると、9月に家老に任じられた。そこで国許復興の命を受け、「寛政の改革」が行われた。天明6年(1786年)10月には金17000両を上方から調達している。しかし、一方で江戸で吉原の大門を3度も示させ、好んで着用した黒色の衣装と豪勢な金の使い方から「黒大尽」と噂された。寛政11年(1799年)4月には、このことが原因で家老を免職、7月には知行を200石減らされ800石となり、嫡子永孚と共に蟄居となった。家督は三男貞升が継いだ。文化6年(1809年)12月、蟄居が解除され、城代隠居次順となった。藩主津軽寧親は、よく城内に呼んでその功績を褒め称えて語り合ったという。藩政に貢献し、また門人も多く非常に慕われた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津軽貞栄」の詳細全文を読む
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