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浄瑠璃(じょうるり)は、三味線を伴奏楽器として太夫がを語る劇場音楽、音曲である。 詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含むものであるために、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめてと呼ぶのが一般的である。 浄瑠璃の流派は江戸時代初期から「~節」とする太夫が多く表れたが、現在、「義太夫節」「河東節」「一中節」「常磐津節」「富本節」「清元節」「新内節」「宮園節」の8種類の浄瑠璃がある。地方によっては「浄瑠璃」という語が義太夫節のことのみを指す場合があるが、上記に様に8種の浄瑠璃が現存し、あくまで義太夫節は浄瑠璃の1つである。 なお義太夫節では同一の丸本が、人形浄瑠璃狂言に用いられる場合と、丸本歌舞伎における場合とでは、微妙に間合いが異なることとなる〔歌舞伎義太夫の世界、22.7.29閲覧、http://www6.ocn.ne.jp/~aoidayu/sekai/cyobokou.htm〕。 == 歴史 == === 起源 === 戦国時代ごろの御伽草子の一種『浄瑠璃十二段草子』。作者は「百家系譜」によれば小野阿通という織田信長に仕える侍女で、大病のため静養していた信長のために三味線を用いて語ったという説が江戸時代までは有力であったが、現在までに様々な学者により議論が進められ、享禄4年(1531)の「宗長日記」には、少なくともそれ以前から浄瑠璃(十二段草紙)が存在していた、との記述があり、それを当道座に所属していた琵琶法師によって、平曲(平家物語を琵琶により伴奏して語ったもの)に次ぐ新たなものとして扱われ、滝野検校によって節づけがなされ、はじめ琵琶で演奏されていたものが、虎沢検校に師事した沢住検校によって三味線を用いて語るようになり、それを小野阿通が信長に聞かせたという説が一般的である。 ;浄瑠璃物語(浄瑠璃姫十二段草紙) :浄瑠璃御前(浄瑠璃姫、もしくは三河国矢矧宿の遊女)と牛若丸の情話に薬師如来など霊験譚をまじえたもの)を語って神仏の功徳を説いた芸能者にあるとするのが通説であり、「浄瑠璃」の名もここから生まれたものである。その内容はだいたいにおいて享禄年間(1528–32年)には完成していたと考えられる。最初期は平曲、謡曲、説経節などの節付けに学んで扇拍子を伴奏にしたようだが、永禄年間(1558–1570年)に琉球から三線が渡来し、これが三味線へと発達するにしたがって飛躍的な成熟を遂げることになる。三味線をいち早く音曲に取入れたのは上方の盲人であったが(上方地歌)、沢住検校が浄瑠璃と合体させ、さらに文禄年間(1593–1596年)にいたってこれが傀儡子(''くぐつし''もしくは''かいらいし'')の伴奏として用いられるようになり、現在にまでいたる浄瑠璃音曲が完成してゆく。浄瑠璃姫十二段草紙の構成は下記のとおり。 *一段 「申し子の段」(姫父母の素性。申し子すなわち神仏に子を願う事。浄瑠璃の由来) *二段 「花そろえの段」(姫の庭に咲く美しい花の描写) *三段 「美人そろえの段」(姫の侍女たちの美を形容した部分) *四段 「そとの管弦の段」(姫と侍女たちの管弦に、牛若丸が門外で笛を合わせる部分) *五段 「笛の段」(牛若の服装と容姿の美に侍女たちが騒ぐ) *六段 「使ひの段」(姫が使いを出し歌によって牛若の心を引き、謎かけをする) *七段 「忍びの段」(牛若が忍び入ろうと、故事を引き姫の心をうかがう) *八段 「枕問答」(仏法になぞらえて姫に問い詰め、姫が負けて無言になる) *九段 「やまとことばの段」(さらにやまとことばで問い続け、姫に口を開かせる) *十段 「御ざうつりの段」(一夜の契りの後、朝の別れ) *十一段「吹上の段」(吹上の浦で牛若が奇病にかかり、姫が八幡山の知らせで駆けつける) *十二段「御曹司東くだりの段」(両人は記念の品を交わし、牛若は奥州に下る) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浄瑠璃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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