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浅井えり子 : ウィキペディア日本語版
浅井えり子[あさい えりこ]

浅井 えり子(あさい えりこ、1959年10月20日 - )は日本女子の陸上競技選手で、主な競技種目は長距離走マラソン)である。帝京科学大学客員教授。主な実績に1988年ソウルオリンピック・女子マラソン日本代表(25位)、1986年ソウルアジア競技大会・女子マラソン金メダリスト、1994年名古屋国際女子マラソン優勝など。
== 経歴 ==
東京都足立区出身。東京都立足立高等学校在学時、友人の誘いで陸上部に入部するも、特別目立った成績は残せなかった〔『もういちど二人で走りたい』浅井えり子・著書より〕。文教大学入学後も再び陸上部に所属〔文教大学時代に浅井を指導したのは、のちに女子長距離走・マラソン解説者としても知られるようになる梶原洋子だった(豊岡示朗(編著)『女性のためのマラソントレーニング』出版芸術社、1995年)〕。同大学の3年在学中だった、1980年11月の第2回東京国際女子マラソンへ初マラソンに挑戦し12位、3時間0分台のゴールタイムで完走を果たした〔。大学卒業後の1982年4月、佐々木功監督の率いる日本電気ホームエレクトロニクス(略称・NEC-HE。当時は新日本電気)へ入社。同社陸上競技部へ入部してから、女子マラソンで頭角を現し始める(尚NEC-HE陸上部は当時より男子部員のみ所属で、その後も女子部員は浅井一人だけであった)。
ロサンゼルスオリンピックの選考レースだった1984年3月の名古屋女子マラソン(のち名古屋国際女子マラソン)では、2時間38分台のタイムで日本人最高の4位となるが、増田明美佐々木七恵の二人とは力の差があるとして、惜しくもロス五輪代表には選出されなかった。ロス五輪後の1984年11月、東京国際女子マラソンではドイツ(当時東独)のカトリン・ドーレに次ぐ2位入賞を果たし、当時日本女子歴代2位となる2時間33分台の好タイムを記録した。直後に増田・佐々木が相次いで一線を退いたため、浅井らが日本女子長距離走・マラソンの第一人者となる。尚東京国際のゴール直後の会見では、浅井の「全て佐々木監督のおかげです」というコメントが注目されてからマスコミ陣が殺到するが、この頃の浅井は「私はタレントじゃないから何度も取材は受けたくない」とウンザリしていたという〔。
その後、1986年10月のソウルアジア大会女子マラソンでは、同じ日本代表の宮原美佐子らと競り合うが、浅井がレース終盤抜け出して優勝、金メダルを獲得。翌1987年8月の世界陸上選手権ローマ大会女子マラソンにも代表選出するなど、数々のビッグレースに出場する。この間、日本女子初の2時間30分突破が期待されたが、記録面では1984年の東京国際を上回れない状況が続いた〔。
1988年1月の大阪国際女子マラソンには、同年9月開催のソウルオリンピック女子マラソン日本代表の座と、日本女子最高記録をかけての出場となった。レース後半の30Km手前で、浅井は宮原美佐子と激しいデッドヒートを展開するが、35km過ぎで宮原のロングスパートを許して突き放され、41km過ぎでは荒木久美にもかわされて4位に落ち、最後は精根尽き果ててゴール手前でよろけて転倒してしまう程であった(宮原は日本女子初の2時間30分突破を達成、2位・宮原と3位・荒木の二人がソウル五輪代表即内定)〔。その後ソウル五輪女子マラソン日本代表において最後の3番手は、1987年11月の東京国際女子マラソンで8位の小島和恵と争う形となるも、1988年3月の日本陸上競技連盟の理事会において、浅井がなんとか滑り込みで念願のオリンピック初選出となった(落選の小島は補欠に)。
それから約半年経った、1988年9月開催のソウル五輪女子マラソン本番レースでは、国内選考会の大阪国際女子マラソンとは全く逆に、浅井が日本人トップでゴールした。しかし、ソウル五輪の数週間前に体調を崩した影響もあってか精神面でも万全で臨めず〔、メダル・8位入賞争いには殆ど絡めないまま、結果浅井は25位(荒木・28位、宮原・29位)という成績に終わる。浅井も含めて日本女子の三選手は、改めて世界との大きな壁を痛感する事となった。
その後30歳前後の頃にスランプに陥り、マラソンで好結果を出せない時期が続いた。1992年8月開催のバルセロナオリンピック女子マラソン国内選考会だった、同年1月の大阪国際女子マラソンでは13位と完敗するも、同年3月の名古屋国際女子マラソンでは3位に入り、バルセロナ五輪日本代表は逃したが4年ぶりにマラソン自己記録を更新した〔。33歳だった1993年3月の名古屋国際女子マラソンでは4位ながらも、30回目のマラソンで目標だった2時間30分台を初めて突破する、2時間28分台の自己最高記録でゴール〔。また同年7月のゴールドコーストマラソンでは、2時間29分台の大会新記録(当時)で優勝。そして翌1994年3月の名古屋国際女子マラソンでは、終盤ラミリア・ブラングロワ(ロシア)らと競り合う中40Km手前で突き放し、当時の日本女子国内3大マラソン(東京(現横浜)・大阪・名古屋(現名古屋ウィメンズ))において、ついに自身悲願の初優勝を果たす〔。この時浅井は、34歳という高齢ながらも「ずっと走り続けてきて、本当に良かった」と、優勝インタビューでは満面の笑顔を浮かべていた〔。
しかしその直後、約13年の間浅井をずっと叱咤激励し続けてきた監督の佐々木功が、1994年6月頃から発熱・食欲不振・体重激減などの体調不良を訴える。浅井を初め周囲から病院に診て貰うよう説得されるも佐々木監督は一切聞き入れなかったが、北海道の合宿中背中と腰の激痛に耐え切れず、同年8月に東京都狛江市東京慈恵会医科大学附属第三病院へ緊急入院〔。検査の結果、脛部皮膚ガンがほぼ全身に転移している事が判明、さらに数か月の余命と診断された。それをきっかけに1994年9月、二人は入籍し結婚式を挙げる〔。佐々木はその後抗がん剤の効果もあり一時は好転して退院。同年12月には浅井と一緒に、新婚旅行を兼ねてホノルルマラソンに行ける程までに回復したが、完治にまでは至らなかった。佐々木の病状は翌1995年1月に悪化したため再入院、浅井の必死の看病も空しく、同年3月13日悪性黒色腫により52歳の若さで逝去。浅井の名古屋初優勝から、わずか1年後の悲劇だった。
佐々木監督の死から復帰のレースは前年に続き1995年12月のホノルルマラソンだったが、途中で立ち止まる場面も有り、2時間56分台の9位留まりだった。翌1996年3月、2年ぶりに名古屋国際女子マラソン(アトランタオリンピック選考レース)に出場、当時36歳ながら2時間33分台のタイムで14位に入る。同年3月限りでNEC-HC陸上部が廃部のため、同社所属選手としては最後のレースとなった。
2015年現在も浅井は東京マラソン長野オリンピック記念 長野マラソン・ホノルルマラソンに出走するなど、日本の現役女子マラソンランナーとして活動中である〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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