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浅井井頼[あざい いより]
浅井 井頼(あざい いより、元亀元年(1570年)頃? - 寛文元年5月16日(1661年6月12日)?)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。通称は喜八郎。後に政信、政賢、政春、政堅、長房と改名したと伝わる。号は作庵。受領名は周防守。 浅井長政の三男(または次男)で浅井万福丸の弟とされるが、浅井氏庶家の出自であり宗家の長政の養子となったとの異説もある。実父と生母の名は不明だが、父は浅井井規の説がある。天正元年(1573年)に浅井氏が織田信長によって滅ぼされたときは、信長の残党狩りから逃れたとされる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に属し、その後に豊臣秀次、秀保の家臣となり、600石の知行を与えられる。秀保の死後、大和郡山に増田長盛が入ると、その家臣となって3,000石を与えられた。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍の生駒親正の隊に属した。戦後に増田長盛が改易されると、親正の子一正に仕えた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で大坂城に入り、二の丸の東を守備し、翌年の夏の陣で討死したとされる。 異説として落城後に大坂を脱出し、常高院を頼り若狭小浜藩の京極忠高の家臣となって「京極作庵」と名乗り、京極家が松江に移封されると、500石の知行を与えられたともされる。また、香川県丸亀市の京極家の菩提寺である玄要寺に浅井井頼の物と伝わる墓がある。 真田十勇士の根津甚八のモデルとされる。彼については小和田哲男の『戦国三姉妹』が詳しい。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅井井頼」の詳細全文を読む
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